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心配してくれる仲間たち

治験治療の終了で、抗ガン剤が変わった。飲み始めたのは「レンビマ」という厚労省が認可した分子標的薬。工藤正俊教授は朝日新聞が詳報したが、肝臓ガンの治験でいい結果を出している。ぼくの場合も効果を期待したいのだが・・・。9月下旬、CTを撮って様子が分かると思う。ガンマーカーはあまりあてにならないそうだ。

「レンビマ」は副作用も少ない、というのだが、ぼくの胃腸は復調したとは言えない。暑さが山を越えたらしい。酷暑は終わったにしても衰弱しきった体力をどう回復させるか。無理してでも食べるしかない。

連日のニュースは激化する日韓対立と香港の対北京抵抗運動。いずれも強権発動になりかねない危険な状態が続いている。朝鮮半島問題と生涯取り組んできた通信社のH君と話した。毎夜のようにテレビ出演し、語っているが、ぼくがもっとも信用している朝鮮半島の専門家だ。人柄がいいし真面目。彼が早稲田の学生時代からの付き合いである。電話で話しているうち近く会おう、という事になった。木場を訪ねてくれるそうだ。持つべきものは友である。

久しぶりに市民運動の全国的連携のつなぎ役をやっている九州大学のA教授が上京したので新橋で会った。彼はアメリカへ留学した際、知り合ったのだがNPO運動を研究している。法政大学でキャリア・パスを講義していたK教授から電話を貰った。香港と隣接する中国の深圳が凄いことになっているそうだ。中国のシリコンバレーと言われ、人口は東京の首都圏並みに膨れ上がっているという。

最近、S会館の理事長になった慶応大学教授から手紙が届き、理事長就任を知ったのだが、若いころから消費者運動について関わってきた彼が伝統の消費者運動NPOを経営するする立場となった。面白い。京都在住の大宅賞受賞作家・G君が上京するとのメールで仲良しのノンフィクション作家やジャーナリストで昼食会を準備した。みな優秀で真面目、それぞれビッグネームだが、気さくで威張らない。党派性の無いリベラルなジャーナリスト仲間である。彼らがぼくの健康を心配してくれるのが嬉しい。

治験治療終了、分子標的薬替え新展開へ

8月28日、ぼくの肝臓ガンの治験治療はピリオドを打った。2018年2月14日、近畿大学病院泌尿器内科の工藤正俊教授の指揮下で始まった治験治療だが、隔週で東京(当初は茅ヶ崎市)から大阪へ通院を続けた。毎回、新幹線の車内で情けない気持ちを抑えきれない。人間は想定外の事件、事項にぶつかるというが、ガンこそぼくに想定外の、何一つ考えていなかった一大事件だ。しかも10人いた(同じ条件下の)治験患者で最後まで残ったのがぼくだった。もちろん「ガンが消えた」のではない。むしろ6月、新しいガンが見つかり、さて、これをどうするか、という課題にぶち当たった、というのが正直な現実です。「ガンとの共生」を主張してきたぼくの新たな挑戦が始まるとも言えます。別に喜んでもいないが、気落ちもしていません。

治験開始当初、その効果が劇的にあったのは間違いない。「余命3~6か月」と宣告されたのにぼくは今も生きている。分子標的薬という抗ガン剤を朝晩飲み、隔週で近大に通い、免疫強化の点滴を打つというガン治療では画期的と言われたダブルでの治験治療だった。最初の数か月は驚くべき効果があり、「記録破りだよ」と工藤教授を驚かせたが、去年夏以降は下降線をたどった一方だったガン・マーカーの数値はなぜか低位、横這いが続いた。

しかし抗がん剤の副作用のため食欲が落ち、食べる物が美味しくない。体力の衰弱が自分でも分かる。副作用がきつくなると一時、休薬を願い出た。ことし4月、再び休薬し2か月休んだ間にガンマーカーは維持できたが、CT撮影で新しいガンが見つかったのです。これに対するこれまでの抗がん剤は復薬しても効果無く、工藤教授は治験治療の終了を告げたのです。治ったわけでなく悪化したのでもないが、なんとも後味の悪い治験終了だった。あっけなく終わった。この2年半とは何だったのか。(生きているからいいいじゃん、と言う声も聞こえる)

今後は抗がん剤を替え、別の抗ガン剤で免疫強化の点滴の効果があるうち(約6か月)に別の分子標的薬を飲むことになった。変わったことと言えば免疫強化の点滴が無くなり、近大通院も1か月に1回と減ったこと。工藤教授の話では抗ガン剤に耐性ができたためで抗がん剤を変えることで効果は期待できる、という経験上の判断でした。

暑かったお盆に下痢が次第に悪化、19日頃からさらに激しくなり22日ついに茅ヶ崎市の湘南東部総合病院に緊急入院、5日間寝たっきり24時間栄養点滴を受けながら美味しくない病院食を美味しいと無理に考えて食べ、ようやく下痢は収まった。副作用は下痢のほかノドが擦れ、皮膚上に妙な斑点が浮き出て少し痒い。一時は話すのもシンドイ状態でした。今はかなり回復しなんとか大阪まで行くことができた。そして・・・「治験終了」を告げられたのである。次回は1か月後、9月下旬に近大でCTを撮り、新たに取り換えた分子標的薬の効果を見ることになった。治験は終わったが、近大の工藤教授の治療は続く。ぼくは教授の指示に従うだけである。現在、肝臓ガンの研究でもっとも高い評価と実績を上げている医学者である。ぼくの友人、故柳原和子の最期の主治医でもあった。亡くなる直前、(喧嘩したらしい)主治医が変わったけど。

緊急入院に際しては湘南東部総合病院の市田隆文院長にお世話になった。気さくで酒好き、日本ペンクラブ会員と言う文人派で、肝臓ガンの臨床例は数えられないほど扱った。日本の肝臓ガンの世界では高い技術力がある。分厚い専門誌『肝胆膵』の編集長をしているから最先端情報を居ながらにして入手できる立場にある。しかもぼくのLAで出会った親友、岩城裕一博士(南カリフォルニア大学組織免疫研究所長、サンディエゴ在)とはピッツバーグ大留学時代の教え子にあたる。

市田院長はぼくがかけた緊急のSOS電話にすぐ対応してくださり、個室ベッドを用意してくださった。感謝している。医師、看護師や検査技師、CT撮影技師ら病院のスタッフはみんな若い。明るく親切で、半世紀前の大病院とは大違いの雰囲気である。でもガンは治らない。「ガンを治す」と言い切る医師はいないと思う。

お盆に大阪通院、抗ガン剤復薬

大型台風が盆にやって来るというので、「のぞみ」の指定席と往復切符を早めに買った。お盆と年末年始はジパング・クラブの優待パスが使えないので、フルチャージ。東京~新大阪、初めて31,000払った。それにホテル代が6,500円。

地下鉄や南海電車代など約4,0000円が1回の通院代である。高齢時代を迎え、お盆に大阪の東南端の大学病院に通うのがぼくの最低の義務と言う、妙な生活が続いている。すでに1年7か月が過ぎた。一度は消えかかったガンは再生し始めた。

工藤正俊教授は丁寧に病状を説明してくださるけど専門知識のないぼくにはガンが良くなっているのか、悪化しているのか、判断つかない。どうやら目前の死、というような危機状況ではないらしい。現在の治験治療を続けざるを得ない。

抗ガン剤を復薬したことで副作用が確実に出て、食欲がまったく無い。また痩せるだろう。のどのかすれも以前より酷いようだ。下痢が激しい。仕方なく下痢止め薬を飲み始めた。27日にCT撮影が予定されているが、さて、その結果如何?

最悪の日韓関係

肝臓ガンの治験で新たに肝臓内にガン映像が見られ、対応に抗がん剤を復薬、副作用で調子は良くない。下痢が激しく、毎日35度を超す猛暑でちょっと弱気になっている。

このところ日韓関係は最悪、日本製品の不買運動まで起き、簡単に修復できそうにない。今夜のテレビの討論番組に登誠一郎が登場した。まったく老けた印象がない。外政審議室長だった彼はLA総領事時代、親しく付き合った。外交は相手の立場を理解して進めるべき、とのコメント。その通りだと思う。安倍首相、河野太郎外相の突き放した態度で韓国の文在寅大統領はますます反発し、すでに話し合う機運ではない。どこまで行くのか。外交上、大きな懸念事項が深刻化している。ぼくの言う「ガンとの共生」を考えてくれるといいのに、と思う。日本は隣国、韓国と共生して行かねばならいのに安倍政権は逆方向に力学が働いている。

再会絶景

九州から電話をもらった。「最近、ブログを更新していないが、どうしてますか。心配している、との電話。申し訳ない。ブログがマンネリ化することを懸念して一度、休んだらなかなか再開できなかった。そのうち新しくガン細胞が見つかり休薬していた抗がん剤を復活した。大阪通院は続けている。

6月中旬、1週間ほどLAへ行った。仲間の熱心な誘いに同意したのである。LAでは4回、講演し「ガンとの共生」について語った。以下に掲載する。

死があって生がある~LA再訪、再会絶景(LAの個人誌から転載)

配属先の讀賣新聞千葉支局のドアを押した。留守番のような記者が一人いて、顎を上へしゃくった。二階へ行け、という意味だ。記者の異動があったらしく送別会で飲んでいた。新人のぼくに「座れ」と言いコップにビールを注いだ。誰も名乗らないしぼくのことも聞かない。車座になって飲み乱雑に議論している。

妙なところへ潜り込んだなあ、とヘンな気持ち、そのまま二次会に繰り出し仕方なくぼくも附いて行った。

新聞記者とはずいぶん非常識で無礼で傲慢な連中だな、というのが最初の印象。オリンピックが東京で開かれる1964年の春だった。・・・そして55年経った。

ぼくは独りで東京の下町のマンションで暮らしている。2017年12月に肝臓ガンが見つかり以降、大阪の大学病院で治験治療を受けて1年半になる。どこで聞きつけたのか、友人知人が見舞いだろう、訪ねてきた。

驚いたのは「ガン」という病気の衝撃力だ。多くが「死」のイメージを抱いている。ぼく自身、ガンだと告げられ「そうか。オレはやがて死ぬのか」となんとなく妙な気分で、死を初めてイメージした。「自分の死」がど~んと目の前に現れ立ちはだかった。

77歳、喜寿を迎えたその年、ぼくの父親は逝った。朝、おふくろが起きて親父の寝間に行ったら死んでいた。大往生だった。その日、新宿で参議院選に出馬した秦豊の激励パーティがありぼくが取り仕切っていた。すぐに駆け付けられない。

パーティが終わって800CCの空冷エンジン、白いトヨタ・パブリカで東名を西へ走った。実家は三重県の四日市。深夜着いた時、きょうだいが全員揃って話し込んでいる。

父はお棺の中で静かに眠っていた。実直な鉄道員人生で、昭和天皇のお召列車の専務車掌をやったことがプライドだった。戦争末期、インドネシアのバンドンの駅長をやった。エリート官僚ではない。踏切番や水汲みから出発した叩き上げのポッポ屋。車掌から助役になり、兄が生まれた時は愛知県の小さな駅の駅長だった。

その父の逝った年齢をぼくは今、生きている。長女はニューヨーク、長男は隣りの駅のマンションで妻と孫娘と4人暮らし。家内は日本橋に住んでいてぼくは独り住まい。典型的な日本の中産階級の少し哀しくも気楽な老後である。

27年近くロサンゼルスでジャーナリストとして住みアメリカを観てきた。学んできた。911同時多発テロに遭遇した時、「アメリカは衰退するな」と確信のような感情が盛り上がってきた。トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」というスローガンはWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)の連中の復権を叫んでいるのだ。でも時代は予想を超えてはるかに進んでしまった。

前大統領、バラク・フセインオバマがケニア人留学生とアメリカ白人とのハーフであることは周知のとおり。アップルの創業者、スチーヴ・ジョブズもシリア人留学生と白人女性との混血である。大坂なおみもサニブラウン・ハキームも日本人とのハーフである。今やまさにハイブリッドの時代なのである。

帰国した友人が馴染みの居酒屋で誘ってくれた。「北さん、LAに来ないか」と。

ぼくは最初、あまり乗り気ではなかった。「今さらLAでもあるまい」。でも入れ替わり友人が何度も来て「今の時代を好きな仲間と好きに生きるんだ」と楽しそうに言い、熱心に誘ってくれた。

フト、心が動いた。

「行ってみようかな。ずいぶん変わったそうじゃないの、LAは」

7月9日午後、羽田空港を発った大型機は1列9席もあった。9日朝、無事LAXに着いた。東北大震災の震災遺児救済キャンペーンで2012年3月に行って以来、7年ぶりだ。

翌日夜、トーランスのホテルで歓迎の夕食会が開かれた。

大半が旧知、友人やスタッフ、昔の仕事仲間だった。渡米直後会って以来、公私とも世話になったマユミさんは市場調査などを引き受ける事務所を開いている。公認会計士の竹チャンは会社を売り買いするビジネス・コンサルタントとなり世界中を飛びまわっている。メキシコのマキラドーラでセミナーを主催したおめでたい姓の彼はトラベル・コーディネーターの会社を経営していた。ニューオータニ・ホテルの宴会マネージャーだった紳士が宴会をアレンジしてくださった。ホロコーストを生き抜きアメリカへ逃げたユダヤ人をインタビューし書き上げた、ノンフィクション作家のきぬえさんの顔も・・・。隣席には外務省が「日本売り込み」に力を入れているジャパン・ハウスの館長もいた。

懐かしさがどっとこみ上げてきた。

確かにみんな少し老けたようだが、友人の瞳は輝き、昔のままの闊達な仲間たちだった。立ち代わり入れ替わり握手しあいさつし、ニコニコ再会を喜んでくれた。

ぼくは「出会絶景」という言葉が好きだが、今回ほど「再会もまた絶景なり」を実感したことはない。

地下鉄が開通したというのにLAのフリーウエイは信じられないほど混んでいた。ダウンタウンのビル街は深夜まで煌々と光が輝き不夜城のごとく蘇っている。それにリトルトーキョーのすぐ側にある6~7番街のホームレス村。簡易テントがずらり。「増えたなあ」との印象。10年前の数倍はいたように見えた。

翌日、アーバインの会場には110人を超える人たちが集まってくださった。ガンに対する関心が強いのだろう。遠くサクラメントやリバーサイドからも来てくれた。

「ガンは治りません」とぼくは語った。「でも(現代の医学の進歩で)ガンと共生することは可能です」「嫌な奴とも共生する。そうすれば戦争は無くなる。平和が訪れる」

ぼくはガンになっていろんな人からいろんな知識、情報をもらった。書棚にはずらりガンに関する本が並んでいる。闘病記もあれば医科学的解説書もある。ガンと生きたジャーナリスト、柳原和子の『ガン患者学』(晶文社)、『百万回の永訣』(中央公論)は印象に残る。

浜松で抗がん剤を否定して元気に生きている女性ジャーナリストがくれたのはノーマン・カズンズ著『笑いと治癒力』(岩波現代文庫)。メンタルな分野がフィジカルな肉体に微妙に影響する事実を書いた名著である。カズンズはアメリカ人ジャーナリストだが、医学に詳しくカリフォルニア大学医学部大脳研究所教授として医療ジャーナリズムを教えた。

荒っぽく言えば「ガンは笑い飛ばせば治る」という。暴論のようだが、カズンズの指摘に近年、医学界が真剣に耳を傾け、ガンを巡ってフィジカルとメンタルとの関係性を研究する医学者が増えているそうだ。

肝臓にガンが発見されたのは2017年12月9日。飲み友達だった市田隆文医博(湘南東部総合病院院長、元順天堂大学静岡病院教授)はCTとMRI撮影の映像を見ながら言った。

「ガンだよ、北さん、それもステージ4だ」。その意味がよく分からない。質問すると「末期ガン、余命3か月、長くて6か月くらいかな」と言い切った。

「へえ、オレは来年の半ばには死ぬのか」と思ったが、実感は湧かない。

市田医師の勧めで大阪の近畿大学病院の工藤正俊教授の治験治療を受けることになった。工藤教授は京大医学部の卒業で、肝臓ガンで画期的な実績をあげているトップクラスの医学者である。

2月14日から治験治療が始まり、抗ガン剤を飲み点滴を受けた。通院患者だから隔週毎に新幹線で大阪へ通った。なんとなく車中は虚しい。落ち込まない。落ち込まない、と自分に言い聞かせた。

ガン細胞の多くは消え、7月中旬ころの診察では「記録的(に効果があった)」と言われた。ところが抗がん剤の副作用は結構厳しく、食欲が減退、味覚が失われて何を食べても美味しくない。次第に痩せてきた。

ジャーナリスト・立花隆は2007年12月に膀胱ガンに罹り、NHKスペシャルのスタッフと「ガンとはそもそもいかなる病気なのか」ということを「多面的に正攻法で取り組んだ番組」(立花隆著『がん 生と死の謎に挑む』(文春文庫)を制作、放送した。

米国取材3回、ヨーロッパ2回、国内15回など文字通り多角的多面的に「ガンの正体」の解明に取り組んだ。その結果、「ガンは個性的であり、(現在の医学では)治らない」というのが結論であった。

友人だったノンフィクション作家・柳原和子も「ガンは個性的」と同じ言葉で書いている。

個性的とは一人一人違う、ということであり、医学はガンを極めることはできない。人間の個性と同じで「決めつけるものは何もない」~分からない、ということである。

ぼく自身、ガンに罹ったから言うのではなく「ガン」と「死」は無関係ではないか、との思いが強い。「ガン」=「死」という既成概念から抜け出すことから(自分の治療が)始まると考えた。

「死」は誰にもやって来る。これを否定する者はいない。だけど「自分は未だ死なない」と(何の理由もなく頑固に)信じている。それに対し「ガン」患者は「死」が近い、と思う。正しいか、間違っているか、ではなく、この呪文から抜け出すことが第一ではないか。

だからぼくは「死ぬまでしっかり生きる」という、心情を語った。太平洋を飛んでLAまで行き、当たり前のことを言ったのに過ぎないのに意外と多くの人々が共感してくれた。考えてみればみんな悩んでいるのだ。

主催者が好意でアンケートを取り、同時にカンパを呼び掛けてくれた。後に主催者からアンケートとカンパが届けられた。多くの感想が共感の言葉で溢れ、「バカな事を言うな」とお叱りのメッセージは一つとしてなかった。

カンパは航空券代の半額近くの額を数えた。お寄せくださった皆さんに深謝である。

遠い過去から人間は何一つ「極めた」ことがない。ギリシア、ローマの時代から西行や鴨長明や松尾芭蕉や・・・。平家物語もまた権力を巡る人間どもの愚かさを琵琶の音を打ち鳴らしながら儚く語り継ぐ。

ポスト印象派のフランス人画家、ポール・ゴーギャンが描いた作品。

<われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか>

同じ問いを発しながら人間の個体は逝ってしまう。また来てまた去る。

同じ疑問を発し同じ疑問に呻き同じ疑問に悩み同じ疑問を棄て去って逝く。

ガンになって偶然、知り合った東京理科大学教授、田沼靖一博士は「死」を研究する分子生物学者である。『ヒトはどうして死ぬのか』(幻冬舎新書)、『遺伝子の夢』(NHKブックス)などを書き、魅惑的なテーマに取り組んでいる。

ヒトの個体は40兆個(以前は60兆個と言われた)の細胞からなり、各細胞は遺伝子を有している。その中に「死の遺伝子」があることが分かった。アポトーシスと言う。

アポトーシスは細胞に「死」を命じている。従って細胞は命じられたとおり死ぬ。皮膚や頭皮の細胞は数日で死ぬものがある。それがフケになる。

ところがアポトーシスの細胞が何らかの原因で死ななくなることがある。するとその細胞はどんどん大きくなる。これがガン腫瘍であり、やがて個体そのものを死に至らせる。分子生物学はそこまで突き止めたが、その先、アポトーシスが命じる死に到る機序が解明できない。それにはもっともっと時間がかかる。

だからガンは治らない。

ぼくが小さなテレビ局で日本語のニュース番組を始めた時、実質的に取材や撮影、編集、出演など積極的に手伝ってくださった女性とも会えた。始めたころは1985年、それから34年経った。当然、溌溂として、美しく愛らしかった彼女もそれ相当に老いていた。でも人柄はほとんど変わらない。私的な悩みも抱えている。

ガーデナのファミリー・レストランで2~3時間話し合った。

デスバレーで正月を迎えた番組を制作し、アラスカの原油を汲み取っているプルドベイまで現地ロケした。野生を追いかけていた写真家・星野道夫君(故人)やアラスカ大学でオーロラの世界的研究者・赤祖父俊一博士にインタビューした。犬橇の耐久レースに挑戦していたサラリーマンにも取材した。撮影は楽しかった。いまやゆかしい。

7月4日のCT撮影でガンが新しく増えていることが分かった。抗ガン剤を休薬して2か月、点滴は続けていたが、医師は新生のガン細胞の現象を説明できない。

治療を転換する時期かも知れない。ガン治療にはいろんなアプローチがある。肝臓動脈にカテーテルを突っ込み、抗ガン剤を吹き付け栓をする塞栓療法や放射線でガン細胞をピンポイントで焼き切る方法。抗ガン剤でガンを抑える。外科手術で切り取るなど。

ぼくのガンとの共生は続く。いつまでも続く。

治験治療の実際①

肝臓ガンが茅ヶ崎市の総合病院で見つかったのが2017年12月9日。同月12日に入院し15日、肝動脈化学塞栓療法(TACE)という手術を受けたことは既述した。右の鼠径部の大動脈に穴を開け、そこからカテーテルという細い管を血管の中を通し肝臓に達したら抗がん剤をふっかけ血管を塞いでしまう。すると塞栓した血管の先に栄養が届かないのでガン細胞は死ぬ。

この手術は成功し二つあった大きなガン細胞は死んだ。医学の世界ではこの手術を”兵糧攻め”、と呼んでいる。ただガンはまた別のところに出てきて、2,3度塞栓手術を続けるとだんだん効かなくなり、しかも肝臓が悪化する。

ぼくが近畿大学病院で受けている治験治療は分子標的薬という抗ガン剤を飲み、かつ2週間に1回、点滴を受ける。専門的な表現だが「アベルマブ/アキシチニブの治験」と言い、2種同時に別々の抗ガン医療を試みているわけだ。アベルマブは分子標的剤と呼ばれるガン細胞をピン・ポイントで攻撃する抗ガン剤で副作用は比較的軽い。それでも味覚が失われ食欲が減退する。下痢、吐き気、唇の荒れなどの症状が出てくる。アキシチニブは免疫ポイント阻害剤で、本庶佑・京大教授が発見しノーベル賞を受賞した物質、T細胞(リンパ球の一種)の「PD-1」とガン細胞の「PD-L1」が結合するのを抑える、ということでガンの増殖を抑える、というのである。

当初から目覚ましい効果が現れ治験を始めてから3-4か月でガンの腫瘍マーカーは劇的に下がった。「記録破りですよ」と工藤正俊教授が叫んだほどだった。しかし・・・。

治験は昨年2月14日第1回を始めた時、同じ治験患者は10人だったが、今残っているのはぼく一人だけ。他はすべて「離脱」した。抗ガン剤が効かなかったか自分で止めたのか、あるいは亡くなったのか、は分からない。

ぼくのガンの状態が最初「ステージ4」(末期ガン)と診察されたが後日「ステージ3」だったかも、と医師は曖昧なことを言う。だが「余命3-6か月」という危険な状態から脱したのは事実だろう。でも体内にガン細胞は残っている。

本の紹介です。

生と死を明るく語る夕食会

前回の血液検査(3月27日)でガンの腫瘍マーカーが3種とも上昇を示した。治験治療始めて初の事態である。これは抗がん剤に耐性ができ、効かなくなってきたことなのか。ちょっと心配である。もし抗ガン剤が「効かない」ことが判ったら治験治療は打ち切りとなる。

いろんなガンに対応できる、それぞれの抗がん剤が開発されているが、長く飲み続けているとガンに耐性ができてくることがこれまで確認されている。ぼくの治験治療を始めて1年2か月経った。マーカー値が上向いたのは初めてで、さて今後どうする?

4月18日17:30~東京・新宿御苑前のインド料理レストラン「ぱぺら」(電話03-3350-0208)で、ガンのトークショーを開く。1月18日に第一回を開いて意外と好評だったので、そのパートⅡと言うわけだ。申し込みは北岡和義(携帯電話090-5217-1359)まで。参加費は2,000円。食費は各自負担。歌とギター演奏がある。

ゲストに北岡のガンを見つけてくださった市田隆文医師(元順天堂大学静岡病院教授)と抗ガン剤を一切使わずガンを乗り切った浜松在住のジャーナリスト、山口雅子。それにメキシコで出会ったカラベラ(骸骨)を描く画家、峰丘(いわき市在住)も「生と死」の課題を提起して参加する。楽しい「生と死を語る」会にしたい。

食品の安全と訴訟・・・和解

LAの友人から電話あり帰国中だという。久しぶりに日本橋人形町で会った。彼は大手食品会社の現地駐在員として1985年に渡米、アメリカ人を相手に豆腐を販売するという途方もないビジネスを始めた。途方もない、と書いたのは当時のアメリカで日本(韓国、中国にもあるが)の豆腐なんて誰も知らない食品である。大豆はアメリカ人が「嫌い」な食品第一位で、「あれは家畜の餌」程度の認識しかなかった。しかし企業者とはいつでも事業の拡大を意識しているのだ。30数年前にすでに日本食をアメリカ市場で販売したい、という意図を抱いていた。海外販売を真剣に考える経営者がいたのである。成功すれば市場の規模は一挙に拡大する。

しかし豆腐と言う食品には難問がある。腐り易いのだ。腐らない豆腐を開発せよ、よいう課題を与えられ、研究開発した結果、豆腐を真空パックで5重に包み、内部を真空状態にして豆腐の腐敗を防いだ。腐らない豆腐が完成して、いざ売り出そうというところで「政治」にぶつかった。

大企業は中小零細企業のビジネスに参入してはならないという法律が国会を通った。日本共産党が主導した立法だという。大手食品メーカーだった彼の会社は豆腐のような零細ビジネスに手を出したらいかん、という。腐らない豆腐は日本で売れないことになった。プロジェクトのメンバーはいろいろ調査した。

当時、中近東の石油企業が事業を拡大し、中国や韓国から出稼ぎ労働者が数十万人に膨れ上がっている、という情報があり、彼らは豆腐を好む。チャンスだ、と彼は砂漠の国々に豆腐を売りに出かけた。確かに現地の中国人や韓国人には好評で、飛ぶように売れた。だが石油ビジネスもオイルショックでビジネスに陰りが出て、アジア人労働者は減少し始めた。そこで目を付けたのがアメリカだったという。

周知のとおり豆腐は大豆でできており、大豆たんぱくが健康にいいことは知られていた。「健康食」をキャッチフレーズに売り出そうと彼はLAXに降り立ったのである。

なぜ彼の話を始めたかというと健康と病気は日々、食べるものと直接関係する。取り分けガン患者は食品に留意する必要がある、食べ物でガンが治ったという話もある。豆腐は健康食、身体にいいのである。

彼は本社から輸入から輸入した真空パックの腐らない豆腐を大々的に売り出した。なにしろテレビで宣伝も始めたのである。ハリウッドの俳優、パット・モリタをキャラクターに「フレッシュ豆腐」を宣伝に販売を始めた途端、訴えられた。「新鮮」とはインチキだ、と。

それでも彼は毎週末、日本食マーケットに前掛けして出かけ、夫人や子供まで動員して豆腐を売りまくった。そのころ、政権は民主党のビル・クリントン大統領で、ヒラリー夫人が「豆腐は健康にいいわよ。いつもビルに食べさせているの」と」ラジオで発言したのを聴いた彼はホワイトハウスに豆腐を贈った。

後日、彼は「ミスター・トーフ」と呼ばれ、自認もした。マイカーのナンバーも「TOFU1」とした。20年後、豆腐は健康食として米国市場に受け入れられポートランドに工場を建て、現地生産するほど成功した。アメリカで「TOFU」は英語となった。今や誰一人知らない者はいないだろう。

久しぶりに人形町の北海道料理店で会い、旧交を温めた。小さな成功だろうが、彼は農水大臣賞を受賞、名古屋の私立大学の客員教授に迎えられ、全国から講演依頼が来ている。

1941年樺太生まれ、ぼくと同年。敗戦で引き揚げ、北海道足寄町で育った。学校教員の次男である。足寄と言えば寒い北海道でも一番冷える十勝平野の真ん中に位置し、帯広市と阿寒湖の中間にあるだだっ広い町だ。ビート、ジャガイモ、大豆、トウモロコシなどを生産しているが、衆議院議員の鈴木宗男や歌手の松山千春が出たことでも知られる。

本ブログで以前、足寄にドライヴしたことを書いたのだが、彼の故郷を訪ねてみたかったからだ。言うまでもなく彼はぼくのテレビ番組のスポンサーになってくれた。

その彼が豆腐の生産・販売を定年退職、兄弟がLAで始めたコンニャクを生産、販売する会社に移ったが・・・。食品の安全問題で訴えられた。(以下、次回につづく)

「生と死と」想いは募る

清水透(慶応大学名誉教授)が東京・中日新聞に連載している「インディオの村通い40年<いのち>みつめて」が2月4日から始まったが、平易な文章にメキシコの辺境の村のインディオとの交流、娘さんの白血病発症と死、そして日本とインディオの村を往還して見えてきたことについて書いている。以下はご本人の承諾を得てメールを下部に転載する。

北岡さん、連載、最後までお付き合いいただきありがとうございました。


> 「生きる」意味をぼくも真剣に考えています。
> ぼくらは真帆さんの3倍も生きている。
> でもぼくらは「幸せ」で真帆さんは「不幸」だったのか。(以上3行はぼくが送ったメール)

そこなんですよね。よく人は善意ではあれ「真帆さんの分も生きなきゃ」などと
「慰めて」くれました。交通事故や殺人ならまだしも、「生き切った」と信じた
い遺族の気持ち、経験者でないとなかなかわからないものです。

娘自身、旅立ちの2週間前、最後の一か八かの治験治療に入る直前、判読できる
最後の文章を残しています。
「・・・・別にこれを最後の文章にしてみなさんにあいさつしているつもりでもないです。・・
骨髄移植のときダメになったとしても、後悔していなかっただろうし、今度も一緒です。
・・・本気で人生どれ程生きて充分なことはなくて内容だと思えるようになったと思う。
・・・やり残していることいっぱいあるけど、もしかして私って、普通の人の味わえる楽しい
ことや嬉しいこと、やらせていただいたのかもしれない。だって楽しかったもの、いつ思い
出しても。私はいつだって自分が好きだったよ。自分が得意だった。思い上がりかもし
れないけど、たくさんの人に愛されていることを実感してきた。運もよかったし。・・・」

僕はこの文章から、いろいろ学ばせてもらいました。人間、個として生を受け、個として旅立ってゆく。その「孤独」をしっかりと引き受けている姿を、娘に感じます。

3月中はずっと東京におりますので、また一杯、ご一緒できれば幸いです。…(以上、清水透からのメール)

ぼくは18年前、突如、LAのオフィスに現れた小柄な中年の男の姿を思い浮かべた。知人の紹介で会ってほしい、との電話があり、ロサンゼルスのオフィスにやってきたのが清水だった。インディオの研究をしているという。文化人類学者かと思ったが、専門は歴史学者だそうだ。

娘さんの真帆さんが白血病で逝ったが、生きる最後まで病床で骨髄移植の登録運動を続けていたという。当時、白血病の治療法は血液型などのタイプが合う人からの骨髄を移植する以外に助かる方法は無かった。しかし骨髄提供を登録してくれる人は微々たる数だった。娘の遺志を継いで骨髄バンク登録のキャンペーンにやって来たそうだ。

真帆さんは、この骨髄の提供を呼び掛ける運動を病床から続けて、23歳という女性としてもっとも美しい年代に逝った。清水は骨髄登録を訴える演劇グループを率いてLAにやって来たという。2001年8月の初旬だった。

リトルトーキョーの日米劇場で上演された芝居は「友情」。白血病に倒れ、抗ガン剤で毛が全部抜けてしまい、禿を恥ずかしがる若い女生徒をクラスの仲間が全員丸坊主になって「これで同じじゃん」とばかり病床の彼女を応援、励ます、というシカゴの高校であった実話を演劇にしたそうだ。

「親父としてなんとか真帆の呼びかけを続けたい」小柄な清水の目は哀しみを越え光っていた。ぼくは協力を約束し番組で紹介した。公演は2001年8月11、12日だった。1か月後、911同時多発テロが発生した。

ぼくは帰国して清水と再会した。彼の蓼科の山小屋のような別荘にも泊めてもらい焚火を囲んで二人だけで深夜まで語り合った。「生きる」ことと「死ぬ」こと。真帆さんの死をめぐって話していたところへ野生のタヌキが忍び寄ってきてぼくらの会話を聴いていた。

もちろんその時、ぼく自身がガンに罹るんなて思いもしなかった。でも清水は「生きること、生ききること」に真剣で、機会を作ってメキシコのインディの村に日本から通っていた。ある意味で不思議とも思える執念を実感した。

「当事者しか分からんもんね」清水は言った。真帆さんの死のことか。ぼくは沈黙したまま頷いた。連載は、常に搾取され痛めつけられてきたのはマイノリティ(少数者)であり、貧しく生きてきたことを淡々と書き綴っている。清水は彼らに心底共感していた。その陰に思わぬ”事実”が隠されていたことを後日、知った。

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北岡和義事務所

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