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生と死を明るく語る夕食会

前回の血液検査(3月27日)でガンの腫瘍マーカーが3種とも上昇を示した。治験治療始めて初の事態である。これは抗がん剤に耐性ができ、効かなくなってきたことなのか。ちょっと心配である。もし抗ガン剤が「効かない」ことが判ったら治験治療は打ち切りとなる。

いろんなガンに対応できる、それぞれの抗がん剤が開発されているが、長く飲み続けているとガンに耐性ができてくることがこれまで確認されている。ぼくの治験治療を始めて1年2か月経った。マーカー値が上向いたのは初めてで、さて今後どうする?

4月18日17:30~東京・新宿御苑前のインド料理レストラン「ぱぺら」(電話03-3350-0208)で、ガンのトークショーを開く。1月18日に第一回を開いて意外と好評だったので、そのパートⅡと言うわけだ。申し込みは北岡和義(携帯電話090-5217-1359)まで。参加費は2,000円。食費は各自負担。歌とギター演奏がある。

ゲストに北岡のガンを見つけてくださった市田隆文医師(元順天堂大学静岡病院教授)と抗ガン剤を一切使わずガンを乗り切った浜松在住のジャーナリスト、山口雅子。それにメキシコで出会ったカラベラ(骸骨)を描く画家、峰丘(いわき市在住)も「生と死」の課題を提起して参加する。楽しい「生と死を語る」会にしたい。

食品の安全と訴訟・・・和解

LAの友人から電話あり帰国中だという。久しぶりに日本橋人形町で会った。彼は大手食品会社の現地駐在員として1985年に渡米、アメリカ人を相手に豆腐を販売するという途方もないビジネスを始めた。途方もない、と書いたのは当時のアメリカで日本(韓国、中国にもあるが)の豆腐なんて誰も知らない食品である。大豆はアメリカ人が「嫌い」な食品第一位で、「あれは家畜の餌」程度の認識しかなかった。しかし企業者とはいつでも事業の拡大を意識しているのだ。30数年前にすでに日本食をアメリカ市場で販売したい、という意図を抱いていた。海外販売を真剣に考える経営者がいたのである。成功すれば市場の規模は一挙に拡大する。

しかし豆腐と言う食品には難問がある。腐り易いのだ。腐らない豆腐を開発せよ、よいう課題を与えられ、研究開発した結果、豆腐を真空パックで5重に包み、内部を真空状態にして豆腐の腐敗を防いだ。腐らない豆腐が完成して、いざ売り出そうというところで「政治」にぶつかった。

大企業は中小零細企業のビジネスに参入してはならないという法律が国会を通った。日本共産党が主導した立法だという。大手食品メーカーだった彼の会社は豆腐のような零細ビジネスに手を出したらいかん、という。腐らない豆腐は日本で売れないことになった。プロジェクトのメンバーはいろいろ調査した。

当時、中近東の石油企業が事業を拡大し、中国や韓国から出稼ぎ労働者が数十万人に膨れ上がっている、という情報があり、彼らは豆腐を好む。チャンスだ、と彼は砂漠の国々に豆腐を売りに出かけた。確かに現地の中国人や韓国人には好評で、飛ぶように売れた。だが石油ビジネスもオイルショックでビジネスに陰りが出て、アジア人労働者は減少し始めた。そこで目を付けたのがアメリカだったという。

周知のとおり豆腐は大豆でできており、大豆たんぱくが健康にいいことは知られていた。「健康食」をキャッチフレーズに売り出そうと彼はLAXに降り立ったのである。

なぜ彼の話を始めたかというと健康と病気は日々、食べるものと直接関係する。取り分けガン患者は食品に留意する必要がある、食べ物でガンが治ったという話もある。豆腐は健康食、身体にいいのである。

彼は本社から輸入から輸入した真空パックの腐らない豆腐を大々的に売り出した。なにしろテレビで宣伝も始めたのである。ハリウッドの俳優、パット・モリタをキャラクターに「フレッシュ豆腐」を宣伝に販売を始めた途端、訴えられた。「新鮮」とはインチキだ、と。

それでも彼は毎週末、日本食マーケットに前掛けして出かけ、夫人や子供まで動員して豆腐を売りまくった。そのころ、政権は民主党のビル・クリントン大統領で、ヒラリー夫人が「豆腐は健康にいいわよ。いつもビルに食べさせているの」と」ラジオで発言したのを聴いた彼はホワイトハウスに豆腐を贈った。

後日、彼は「ミスター・トーフ」と呼ばれ、自認もした。マイカーのナンバーも「TOFU1」とした。20年後、豆腐は健康食として米国市場に受け入れられポートランドに工場を建て、現地生産するほど成功した。アメリカで「TOFU」は英語となった。今や誰一人知らない者はいないだろう。

久しぶりに人形町の北海道料理店で会い、旧交を温めた。小さな成功だろうが、彼は農水大臣賞を受賞、名古屋の私立大学の客員教授に迎えられ、全国から講演依頼が来ている。

1941年樺太生まれ、ぼくと同年。敗戦で引き揚げ、北海道足寄町で育った。学校教員の次男である。足寄と言えば寒い北海道でも一番冷える十勝平野の真ん中に位置し、帯広市と阿寒湖の中間にあるだだっ広い町だ。ビート、ジャガイモ、大豆、トウモロコシなどを生産しているが、衆議院議員の鈴木宗男や歌手の松山千春が出たことでも知られる。

本ブログで以前、足寄にドライヴしたことを書いたのだが、彼の故郷を訪ねてみたかったからだ。言うまでもなく彼はぼくのテレビ番組のスポンサーになってくれた。

その彼が豆腐の生産・販売を定年退職、兄弟がLAで始めたコンニャクを生産、販売する会社に移ったが・・・。食品の安全問題で訴えられた。(以下、次回につづく)

「生と死と」想いは募る

清水透(慶応大学名誉教授)が東京・中日新聞に連載している「インディオの村通い40年<いのち>みつめて」が2月4日から始まったが、平易な文章にメキシコの辺境の村のインディオとの交流、娘さんの白血病発症と死、そして日本とインディオの村を往還して見えてきたことについて書いている。以下はご本人の承諾を得てメールを下部に転載する。

北岡さん、連載、最後までお付き合いいただきありがとうございました。


> 「生きる」意味をぼくも真剣に考えています。
> ぼくらは真帆さんの3倍も生きている。
> でもぼくらは「幸せ」で真帆さんは「不幸」だったのか。(以上3行はぼくが送ったメール)

そこなんですよね。よく人は善意ではあれ「真帆さんの分も生きなきゃ」などと
「慰めて」くれました。交通事故や殺人ならまだしも、「生き切った」と信じた
い遺族の気持ち、経験者でないとなかなかわからないものです。

娘自身、旅立ちの2週間前、最後の一か八かの治験治療に入る直前、判読できる
最後の文章を残しています。
「・・・・別にこれを最後の文章にしてみなさんにあいさつしているつもりでもないです。・・
骨髄移植のときダメになったとしても、後悔していなかっただろうし、今度も一緒です。
・・・本気で人生どれ程生きて充分なことはなくて内容だと思えるようになったと思う。
・・・やり残していることいっぱいあるけど、もしかして私って、普通の人の味わえる楽しい
ことや嬉しいこと、やらせていただいたのかもしれない。だって楽しかったもの、いつ思い
出しても。私はいつだって自分が好きだったよ。自分が得意だった。思い上がりかもし
れないけど、たくさんの人に愛されていることを実感してきた。運もよかったし。・・・」

僕はこの文章から、いろいろ学ばせてもらいました。人間、個として生を受け、個として旅立ってゆく。その「孤独」をしっかりと引き受けている姿を、娘に感じます。

3月中はずっと東京におりますので、また一杯、ご一緒できれば幸いです。…(以上、清水透からのメール)

ぼくは18年前、突如、LAのオフィスに現れた小柄な中年の男の姿を思い浮かべた。知人の紹介で会ってほしい、との電話があり、ロサンゼルスのオフィスにやってきたのが清水だった。インディオの研究をしているという。文化人類学者かと思ったが、専門は歴史学者だそうだ。

娘さんの真帆さんが白血病で逝ったが、生きる最後まで病床で骨髄移植の登録運動を続けていたという。当時、白血病の治療法は血液型などのタイプが合う人からの骨髄を移植する以外に助かる方法は無かった。しかし骨髄提供を登録してくれる人は微々たる数だった。娘の遺志を継いで骨髄バンク登録のキャンペーンにやって来たそうだ。

真帆さんは、この骨髄の提供を呼び掛ける運動を病床から続けて、23歳という女性としてもっとも美しい年代に逝った。清水は骨髄登録を訴える演劇グループを率いてLAにやって来たという。2001年8月の初旬だった。

リトルトーキョーの日米劇場で上演された芝居は「友情」。白血病に倒れ、抗ガン剤で毛が全部抜けてしまい、禿を恥ずかしがる若い女生徒をクラスの仲間が全員丸坊主になって「これで同じじゃん」とばかり病床の彼女を応援、励ます、というシカゴの高校であった実話を演劇にしたそうだ。

「親父としてなんとか真帆の呼びかけを続けたい」小柄な清水の目は哀しみを越え光っていた。ぼくは協力を約束し番組で紹介した。公演は2001年8月11、12日だった。1か月後、911同時多発テロが発生した。

ぼくは帰国して清水と再会した。彼の蓼科の山小屋のような別荘にも泊めてもらい焚火を囲んで二人だけで深夜まで語り合った。「生きる」ことと「死ぬ」こと。真帆さんの死をめぐって話していたところへ野生のタヌキが忍び寄ってきてぼくらの会話を聴いていた。

もちろんその時、ぼく自身がガンに罹るんなて思いもしなかった。でも清水は「生きること、生ききること」に真剣で、機会を作ってメキシコのインディの村に日本から通っていた。ある意味で不思議とも思える執念を実感した。

「当事者しか分からんもんね」清水は言った。真帆さんの死のことか。ぼくは沈黙したまま頷いた。連載は、常に搾取され痛めつけられてきたのはマイノリティ(少数者)であり、貧しく生きてきたことを淡々と書き綴っている。清水は彼らに心底共感していた。その陰に思わぬ”事実”が隠されていたことを後日、知った。

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核と原発とガンと

国宝・松本城はずいぶん周辺含めきれいに整備されていた。天気が良かったこともあって松本城は蒼穹に見事な構図となっていた。3月2日、信濃毎日松本本社で日本ペンクラブ主催の「平和の日」の集い、「サイレントマジョリティになるな」が開かれ、平和委員会の一員として参加した。雨の新宿バスセンターから高速バスで松本まで行き、大阪毎日テレビの元ディレクターと落ち合い、イベントに参加した。テーマは信州大学の学生たちが考えたという。

講師は作家の浅田次郎・あさのあつこ・ドリアン助川・と信毎論説委員長の 丸山貢一 の4人。これまた若者の提案でステージを作らずフラットなフロアを4ブロックに分け、講師と語り合うという趣向。2時間の議論はどのブロックも白熱し時間足らずの印象だった。

懇親会に移り、ワインを飲みながら交流した。若者らはイベントの進行を進め、講師がたじたじとする場面もいばしば見られた。若い世代が「沈黙」してるわけではない。現在の日本へモノ申す若い世代がいて初めて現状況への提言がリアリティを感じさせる。彼ら彼女らはぼくにとっては孫の世代だが信大生らは溌溂として眩しかった。

この後、吉岡忍会長らと少人数でバーへ行った。そこで京都大学原子炉研究所(現複合原子力科学研究所)の助教だっ小出裕章に会った。東北大生の時代から一貫して原発の危険性を警告し、反原発の書を多く書いている。

小出は東京・上野の生まれで東北大学工学部で原子核工学を学んだ核問題の専門家。ぼく自身、311以降、小出の講演を聞いたことがある。

小出は山岳大好きの山男、京大を退職すると目前にアルプスが見える松本を選んだ。ワイングラスを傾けながら日本の原子力政策の破綻を親しく聴く時間を楽しんだ。ぼくは「核廃絶と憲法9条保持」を自分の生き方の信条としている。

日本が非武装の憲法を73年間保持し続け、その間一度も自衛官は他国の人間を殺していないし、殺されていない。その重い意味を噛み締めているのだが、現政権はぼくの考え方と真逆の政策を進めている。

松本で小出に会えたこと、天祐かも知れない。翌日、東京へ戻って小出からメールを貰った。ぼくとまったく同じ死生観を指摘され、幸せな気分に浸れた。水が緩んだらまた松本を訪ねたい。以下に小出のメールをおゆるしいただき、転載する。

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こんにちは。
 メールと「静岡新聞」の記事、ありがとうございました。
 「眼光鋭い権力批判の合間に、不意に見せるやさしい笑顔」は先日お会いした時に感じました。
 私が北岡さんに向かってこんなことを言うのは失礼ですが、生死についての考え方が北岡さんと私とでとても近いと思います。
 余計なものですが、3年程前に「早稲田文学」に書いた拙文を添付させていただきます。

 (途中略)

 「共産党」が何を言い、何をやったのかを明らかにすることも大切と思います。
 原子力発電は生産力の発展のために必要だ。今の日本の原子力発電は資本家のためで悪だが、自分たちが政権を取った時には推進すると彼らは言い、絶対否定の私はさんざんバッシングを受けました。

「戦争を知る者世代」の責務として語り継いでくださるとのこと、ありがたく思います。

              2019/3/4  小出 裕章

青春謳歌

赤坂で食事が始まった時、携帯が鳴った。孫娘からだった。

「おじいちゃん、受かったよ」

希望の大学受験に合格したという報せ。幸福感がひたひたと沸き上がる。生きていることは素晴らしい。

「おめでとう!」青春謳歌の時である。

ぼくの人生でもっとも嬉しかったのは高校受験に合格したときと自動車の運転免許証を取ったとき。いずれにせよ一つのハードルを越えるという事は自分の行動の可能性が広がるという事でもある。4月入学する大学は在学中、留学を義務つけているそうで、これからの若者にはとてもいい制度だと思う。

自分の国でない国を観ること、知ること、自分とコミュニケーションできない人を理解することがどんなに難しいか。言葉はもちろん文化や宗教や風習が違うという人々、それ自体を知ることが大切なのだと思う。いや、同じ日本国内でも高知の山奥の人口400人の村人の生活は都会に住むぼくらが理解するのは難しい。辺野古を埋め立てられつつある沖縄県で今日24日、朝から住民投票が行われているが、その住民の意思表示が示されても政府によって政策が変更される可能性は限りなく狭く小さい。。

現実には政府が国会で多数党である限り、やりたい放題、沖縄県の人々の反基地感情を逆なでする政策がどんどん進められてゆく。その現実さえぼくらは実感として理解することが難しい。沖縄を訪れるたびに痛感した。

その難しい社会を大学生になったら理解するだけの勉強をしてほしい。

洲崎遊郭跡を巡る

昨秋「ヒトはどうして死ぬのか」というなかなかチャーミングな研究をしている分子生物学者と親しくなった。彼が書いた本を読むことを条件に東京理科大学の研究室を訪ねた。その書には「死の遺伝子の謎」というサブタイトルがついている。

考えてみればこれまでの生物学、医学の研究は「生きる」ことの研究であり「死」をテーマにした研究とはなかなか興味深い。で、気さくな彼と仲良しになり、いろいろ教えていただく機会が増えた。

「アトポーシス」という言葉も知った。「死の遺伝子」を指す。本ブログの冒頭部分に書いたので、読み返してみて欲しい。どうして人間に死が訪れるのか。なぜぼくらは「死」を恐れるのか。

昭和天皇の最期の3か月を想い出してほしい。ぼくは当時、LAにいたが、あるテレビ会社と24時間、拘束される契約をした。いかなる時もいざ、天皇崩御となれば取材に行ける体制を請け負い3か月続いた。

1989年1月7日、その日が来た。ぼくはLAダウンタウンのコンベンション・センターで国際モーターショーの取材をしていた。トヨタが初めてレクサスと言う超高級車をリリースした。静かなエンジン音の素晴らしい車だった。ぼくはカメラマンにそれを撮影させ、米国トヨタ社長にインタビューした。その時、腰のポケベルが鳴った。(当時は携帯電話なんて持っていなかった)慌てて公衆電話に飛びつき東京のテレビ局の国際部デスクをコレクトコールで呼び出した。「昭和天皇崩御、ただちに取材に入ってくれ」デスクの緊張した声を耳に、カメラマンを急かせ日本人町リトルトーキョーへ走った。

それが「昭和最後の日」のぼくだった。なぜ、ぼくらは「死」に鋭く反応するのだろうか。昭和天皇の死は世界を駆け巡った。そしてぼくらは「平成」という時代を迎えた。その平成もあと1か月余で終わる。今上天皇が生前退位を希望したからである。

そのアトポーシスを教えてくださった研究者夫妻が2月19日、ぼくの住む下町にやってきた。この地は洲崎遊郭といって公娼制度が廃止されるまで男の遊び場だった。明治期、森有礼初代文部大臣が東大のすぐ側に根津遊郭があったことから、埋め立て地だった洲崎に遊郭を移させたという。今もその跡地が残っていて、遊郭で亡くなった遊女らの慰霊碑もある。

東京の古い下町と新しいマンションが立ち並ぶちょっと変わった町である。嬉しいことにこちらに引っ越して客が頻繁に訪れる。住宅街のど真中に居酒屋がある。昔風の魚屋も銭湯もある。なかなか住み心地のいい街である。

吉岡ペン例会

2月15日17:30~日本ペンクラブの例会に顔を出した。出席者の大半が未知の人である。吉岡忍会長になって新会員が増え、全体に若返っているようだ。組織にとって結構なこと。昨秋、高松市で開かれた「ふるさとと文学、菊池寛」の模様を撮影した映像を上映、バイオリニスト・佐藤久成の生演奏があった。

昨年完成した出版クラブの新館で行われたが、場所は神田神保町で従来の神楽坂よりはるかに行きやすいが、会費のわりに食事がお粗末、酷かった。環境委員会の山本源一氏と話した。中村敦夫(紋次郎)の独り芝居・朗読会が各地で好評で満員が続いているそうだ。4月27日、東京・杉並公会堂で行われるが、チケットはほぼ売りつくされそうだ。

ペン例会の後、親しい仲間数人と二次会に行き、楽しく語り合った。多くの会員の悩みが実親の介護。そのために例会に出られない人がいる。でも皆さん意気軒高、小説を書き続けている人も少なくない。ペンクラブらしい。

3月2日松本市の信毎メディアガーデンで「平和の集い」が開かれる。身体の調子も悪くないので行こうと思っている。去年は沖縄で開かれたが、ガン対処で行けなかった。

大阪に難波京があった?

2月13日の定期検査・検診ではあまり大きな変化はなく、ガンの腫瘍マーカーは低位で落ち着いている。主治医の話では「いま、すぐ命に係わる状況ではない」との話。大阪通院を始めて満1年経った。

2月12日夜、大阪に着いて友人が主宰している大阪自由大学の講義を覗いた。テーマは「未完の難波京」。考古学の発掘が進むにつれ大阪に天皇の宮があったことが分かってきた。実際に発掘に当たってきた考古学者の話だからウソは無い。

大阪都構想を主唱している橋本徹(元大阪市長)が小躍りして喜びそうな話だが、大阪に「宮」(天皇の所在する宮廷)があったことは発見された遺跡で証明できるが「京」と言えたかどうかは専門家でも未だ定見はない。

「京」とは天皇が住む宮廷があり、そのしもべがいて政事を行う。同時に庶民が定住して商売し町を作った、という事実を指すのだそうだ。だから日本最古の京は飛鳥京、藤原京、平城京など時代とともに移り、京都になった。考古学にも歴史にも疎いぼくだから正確かどうなのかまったく自信がないが、大阪に「難波京(あるいは難波宮)」があったことは立証されている、という事実は面白い。

少なくともぼくらの子供時代はそう習わなかった。NHK大阪放送局を建て直した時、地下に遺跡が発見され、現在は一般公開している。ぼくも数年前に観た。

歴史は「文献」によるものと「遺跡」から発掘されたものの研究が進んで「日本国」の形成期がだんだんわかってきたのだろうが、今も卑弥呼がどこにいたのか「倭国」はどこなのか、現在も謎で論争のテーマだ。それにしても大阪学に50人もの聴衆が熱心に講義を聞いていたこと自体、なかなか興味ある光景だった。

ボルネオの犀を探す

ガンで治験治療を続け1年経った。生活拠点を東京の下町に移したが、ゴミや大型家具の処理でいろいろ面倒な手続きがあり、実感として「地球は壊れかかっているなあ」との感想を抱いた。文明は何世紀にも渡って地球環境を破壊し「便利さ」を求めて開発を続けてきた。今やもう限界、との印象を強くもった。

2月9日午後2時20分から渋谷で「ボルネオの犀」を探そうというNPO、ボルネオ保全トラスト・ジャパン(BCTJ)の呼びかけ、現地報告会がありました。40人くらいの聴衆でしたが、ボルネオのジャングルに定住している石上淳一氏がジャングルの奥地に入り込み、現地の村人とともにカメラ・トラップを仕掛けた狙いを披露。ジャングル入りの一行と共にしたジャーナリスト・桐島瞬氏、カメラマンの柏倉陽介氏も同行の模様を写真を示しながら話しました。

ボルネオ島は世界で3番目の大きな島ですが、基本的に熱帯雨林地帯で野生動物はジャングルの中で生活しています。ボルネオの野生動物で有名なのはオラウータンやボルネオ象、犀などですが、その犀が捕獲保護されている雄雌2頭を除いて絶滅寸前といいます。しかし未だ人間が入っていない奥地の未踏のジャングルには生息しているのではないか、との期待を語っていました。

ボルネオ犀は非常に神経質な動物で人の匂いがするだけで逃げ、まったく姿を見せないそうです。2年前、犀の子供の足跡を発見、未だ「生息している」可能性に胸を躍らせています。しかし広大なジャングルで未踏の地域で犀を探索するという事になると巨額のお金と時間がかかります。できれば募金運動で探索のための資金を集めたい、とBCTJでは考えています。

ボルネオ島ではジャングルを切り拓いてパームヤシを植え、その実から油を絞り取って売っています。いい収入の道と言えるでしょう。日本のコンビニで売っている商品のほとんどにこのパームオイルが入っているそうです。ジャングルを切り拓いたパームオイル(ヤシ油)園は広大な広がりを見せ、そのため自然のジャングルが狭められて野生動物が生きてゆくことができなくなっています。

地元マレーシャのサバ州野生動物管理局は2015年、ボルネオ犀の絶滅宣言を出したそうですが、昨年7月、現地入りしたBCTJの顧問・坪内俊憲星槎大学教授と現地でカメラ・トラップを設置、野生動物の観察を続けている石上淳一氏は「(ボルネオ犀は)未踏の奥地に生息しているはず」と確信しており、今後、見つける運動を展開してゆきたいと語りました。途方もない広がりのジャングルで人間を恐れる犀を発見することは至難の業でしょうが、夢多きプロジェクトとも言うことができます。地球を破壊してきた文明は反省期を迎え、真剣にその方策をとって欲しいと期待しています。

ガンと同じで雲を掴むような話ですが、夢があっていい。

16歳でガンに罹った友人

1月4日、まさに新春早々、大阪の病院へ行った。定期検査、検診そして治験治療の点滴です。1回100~180万円を超えるとか。治験ですから正確な金額はあるようでない。最初が昨年2月14日だったから今やそれも22回余を受けていることになる。点滴前の薬を飲み30分休む。点滴は1時間。終わって2時間は病院内で休むことを義務つけられている。何が起きても医師がすぐ対応できるように、という体制だ。幸い一度も体に大きな変化は起きず、1時間半が過ぎると新幹線に間に合うよう新大阪へ急ぐ。路線バス(時にはタクシー)で最寄りの私鉄駅まで行き、なんばで乗り換え新大阪へ行く。そこで東京へ戻る新幹線に乗る、という道筋だ。慣れたようななかなか慣れないような気分です。

長年の友人、F君からメールが飛び込んだ。学生時代、新左翼だった。政党の機関紙の編集長をしていたから一見、ジャーナリストの雰囲気もありながら、政党の立場ははっきりしている。昔、LAからいろんな情報を記事として送った。特にジャパノロジストのインタビューや日系アメリカ人の歴史ものは意図的に送った。

彼のメールを読み驚いた。なんと16歳でガンに罹り死に直面したそうだ。ことしになって初めて知った。彼の許可を得て全文、掲載する。

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北岡さんががんを告知されたのが76歳と先日知りました。

話したことがなかったかも知れません、私は16歳のときにがんを告げられました。高校2年、1965年の2月でした。発熱がつづき、額のところに小さな突起物ができました。私は小学生の時に心臓弁膜症を早期発見した経験があり(それでも二か月入院しました)、体の変調にはすごく敏感になって生きていたのです。

それで父親と札幌の北大病院へ検査に行きました。その時の結果は異常なし、でした。その夜、札幌の姉の家に泊めてもらいましたが、どうしてもひっかかるのです。体内から、オカシイ、という声が聞こえてきている感じが抜けません。

それで、翌日、父親は千歳に帰りましたが、私1人、再度北大に行き、再検査をしてもらいました。若い医者が前日のレントゲン写真を丁寧に見直し、右の鎖骨のところがひっかかる、局部レントゲンを撮ってみよう、ということになりました。その結果、右鎖骨部に腫瘍があることが分かったのです。

医者はあわてました。とにかく、早急に対応しなければいけないが、北大病院へ入院するとなると時間がかかる、市内の病院に問い合わせてみる、と直ぐに受話器をとって電話を始めました。そして、清水脳神経外科という病院に空きがあり、翌日入院し、手術するように、とのことでした。あとで調べると、少年期の急速な生育のスピードによって肉体のズレが生まれ、肉と骨のところの違和ががんを生んだのだと、知りました。

当時、「愛と死を見つめて」という手記、それの映画が大ヒットしていましたが、あれも骨肉腫でした。私が、入院し、手術をして成功したとして、その後はどうなるのか? と聞くと、首から上に肉腫が上がるとアウトだが、そうでなければいい。しかし、25歳までは要注意だ、ということでした。16歳の私に実に率直に語ってくれたことに、いま思うと少々驚き、感謝をしたいですね。

室蘭線の三川という小さな駅に夜降り立つと、吹雪でした。家まで4キロを、吹雪の中を歩きました。その時に一番、死を考えたと思います。「それにしても早すぎるじゃないか」というのが一番の思いでした。

翌日は入院ですから、栗山の高校に行き、病名は伏せて入院することを担任に告げ、友人たちと別れました。病院では、3日後に手術をする。執刀するのは北大の医師チームだと告げられました。そうすると、48時間位しか自由な時間はありません。私はその時に、ドストエフスキーも読まずに死ぬのはつらいな、と思いました。

それで『罪と罰』を手術までに読みきろう、と決めたのです。看護婦さんに話すと了解してくれて、消灯後もスタンドを使うことを許してくれました。それで何とか、手術が始まるまでに読了したのです。

その時の経験がいまも生生しくて、その後『罪と罰』を手にしたことはありません。手術は、けっこう大掛かりなチームが撮影をしながら行われ、成功しました。親から直接に私のがんのことについて聞いたことはありませんが、弘前大に行っていた直ぐ上の兄に母親は私の病気のことを書いた手紙を出していました。普段、手紙を書くことはほとんどなかった母ですから、如何に動揺したかを随分後になって知ることになりました。

しかし、当時つきあっていた同期生の恋人以外には、誰にもがんのことは話しませんでした。同情というか、「不幸な人」というメガネで見られるのがいやだったのだと思います。手術は成功しましたが、再発の不安がいつも頭の隅にある青春時代となりました。大学で学生運動をしていても、毎年、秋になると高熱を出して寝込みました。生協で働くおばちゃんの家で何日も寝かせてもらい、不安に怯えることになったのです。同時に、人並みに企業に就職し、結婚し、という人生の進路は全然信じられないというか、そうは生きられない、生きてはいけないという思いが常にありました。

若く死ぬにしても、自分の人生を生ききった、と自分に言ってやりたい、人の所為や時代の所為にはしたくない、とそんな風でした。私が多分、他の活動家よりも本気度があったのは、そういう理由です。しかし、新左翼運動には未来はない、とその運動が一番高揚した1969年10月に思い始め、11月に社学同北海道委員長を辞任し、運動から退きました。

私が社会党中央本部に入ったのは30歳のとき。25歳を過ぎ、腫瘍の不安も薄らぎ始めたのですが、母親が私に「誠ちゃんのような人は、30歳ころまでは何をしてもいいけど、30歳になったら一生の仕事というのを見つけなさい」と言われたことを盾に(母親はそんなことを言った記憶はないと後から言ってましたが)、組織に属さない生き方をしていたのでした。

「死」と向き合わざるを得ない、というのは辛いことでしたが、しかし、物事を表面的に判断したり、誰かの所為にしないで、基本的にはお墓に入るときに、「まぁ、しっかり生きたよな」と自分に言えるような人生を考えてこれた、ということでは幸せだったと思っています。

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彼は確かぼくより10年若いはずだからいま、60歳代後半。確かにインデペンデントな人で、自分のやりたいことはきちんとやる、という生き方。几帳面な性格で大の映画ファン、彼からいろんな映画の解説を教えてもらった。有為な人も紹介してもらった。感謝している。政治好きなのか、今も国会を離れず、ボランティアで国会の情報を送ってくれる。素敵な人生だと思う。

北岡和義事務所

東京都在住

E-mail: kazuyoshi.kitaoka@gmail.com

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