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お遍路さんの寺

22日昼、東京・赤坂で四国のお遍路さんが立ち寄るお寺の住職さんと会食。正確に書くと「真言宗智山派四国八十八ケ所霊場第三十七番札所・岩本寺」四国を白装束と杖で歩いて巡るお遍路さん。ぼくの友人も何人か巡った。

この寺の住職さんは女性で、いま、ガンだそうです。ぼくもガン。見た目は健康そのもの。日本でもっとも澄んでうつくしいと言われる四万十川の近くにお寺があり、今も巡礼は後を絶たないそうです。スペインのガルシアへ行った時、やはりカソリックの巡礼が大聖堂まで徒歩でお参りに行く巡礼があると聞いた。

この住職さん、水が緩んだらぜひ訪ねてみたい。高知県のもっとも山深い大川村へ行って足の踵が痛くなり、病院へ行ってガンが分かった、といういわく因縁がある。「末期ガン」と言われて、ぽか~んとしたことを今も覚えている。以来、1年たった。彼女の事は改めて書きたい。

食事が始まった時、携帯が鳴った。孫娘からだった。

「おじいちゃん、受かったよ」

希望の大学受験に合格したという報せ。幸福感がひたひたと沸き上がる。生きていることは素晴らしい。「おめでとう!」

洲崎遊郭跡を巡る

昨秋「ヒトはどうして死ぬのか」というなかなかチャーミングな研究をしている分子生物学者と親しくなった。彼が書いた本を読むことを条件に東京理科大学の研究室を訪ねた。その書には「死の遺伝子の謎」というサブタイトルがついている。

考えてみればこれまでの生物学、医学の研究は「生きる」ことの研究であり「死」をテーマにした研究とはなかなか興味深い。で、気さくな彼と仲良しになり、いろいろ教えていただく機会が増えた。

「アトポーシス」という言葉も知った。「死の遺伝子」を指す。本ブログの冒頭部分に書いたので、読み返してみて欲しい。どうして人間に死が訪れるのか。なぜぼくらは「死」を恐れるのか。

昭和天皇の最期の3か月を想い出してほしい。ぼくは当時、LAにいたが、あるテレビ会社と24時間、拘束される契約をした。いかなる時もいざ、天皇崩御となれば取材に行ける体制を請け負い3か月続いた。

1989年1月7日、その日が来た。ぼくはLAダウンタウンのコンベンション・センターで国際モーターショーの取材をしていた。トヨタが初めてレクサスと言う超高級車をリリースした。静かなエンジン音の素晴らしい車だった。ぼくはカメラマンにそれを撮影させ、米国トヨタ社長にインタビューした。その時、腰のポケベルが鳴った。(当時は携帯電話なんて持っていなかった)慌てて公衆電話に飛びつき東京のテレビ局の国際部デスクをコレクトコールで呼び出した。「昭和天皇崩御、ただちに取材に入ってくれ」デスクの緊張した声を耳に、カメラマンを急かせ日本人町リトルトーキョーへ走った。

それが「昭和最後の日」のぼくだった。なぜ、ぼくらは「死」に鋭く反応するのだろうか。昭和天皇の死は世界を駆け巡った。そしてぼくらは「平成」という時代を迎えた。その平成もあと1か月余で終わる。今上天皇が生前退位を希望したからである。

そのアトポーシスを教えてくださった研究者夫妻が2月19日、ぼくの住む下町にやってきた。この地は洲崎遊郭といって公娼制度が廃止されるまで男の遊び場だった。明治期、森有礼初代文部大臣が東大のすぐ側に根津遊郭があったことから、埋め立て地だった洲崎に遊郭を移させたという。今もその跡地が残っていて、遊郭で亡くなった遊女らの慰霊碑もある。

東京の古い下町と新しいマンションが立ち並ぶちょっと変わった町である。嬉しいことにこちらに引っ越して客が頻繁に訪れる。住宅街のど真中に居酒屋がある。昔風の魚屋も銭湯もある。なかなか住み心地のいい街である。

吉岡ペン例会

2月15日17:30~日本ペンクラブの例会に顔を出した。出席者の大半が未知の人である。吉岡忍会長になって新会員が増え、全体に若返っているようだ。組織にとって結構なこと。昨秋、高松市で開かれた「ふるさとと文学、菊池寛」の模様を撮影した映像を上映、バイオリニスト・佐藤久成の生演奏があった。

昨年完成した出版クラブの新館で行われたが、場所は神田神保町で従来の神楽坂よりはるかに行きやすいが、会費のわりに食事がお粗末、酷かった。環境委員会の山本源一氏と話した。中村敦夫(紋次郎)の独り芝居・朗読会が各地で好評で満員が続いているそうだ。4月27日、東京・杉並公会堂で行われるが、チケットはほぼ売りつくされそうだ。

ペン例会の後、親しい仲間数人と二次会に行き、楽しく語り合った。多くの会員の悩みが実親の介護。そのために例会に出られない人がいる。でも皆さん意気軒高、小説を書き続けている人も少なくない。ペンクラブらしい。

3月2日松本市の信毎メディアガーデンで「平和の集い」が開かれる。身体の調子も悪くないので行こうと思っている。去年は沖縄で開かれたが、ガン対処で行けなかった。

大阪に難波京があった?

2月13日の定期検査・検診ではあまり大きな変化はなく、ガンの腫瘍マーカーは低位で落ち着いている。主治医の話では「いま、すぐ命に係わる状況ではない」との話。大阪通院を始めて満1年経った。

2月12日夜、大阪に着いて友人が主宰している大阪自由大学の講義を覗いた。テーマは「未完の難波京」。考古学の発掘が進むにつれ大阪に天皇の宮があったことが分かってきた。実際に発掘に当たってきた考古学者の話だからウソは無い。

大阪都構想を主唱している橋本徹(元大阪市長)が小躍りして喜びそうな話だが、大阪に「宮」(天皇の所在する宮廷)があったことは発見された遺跡で証明できるが「京」と言えたかどうかは専門家でも未だ定見はない。

「京」とは天皇が住む宮廷があり、そのしもべがいて政事を行う。同時に庶民が定住して商売し町を作った、という事実を指すのだそうだ。だから日本最古の京は飛鳥京、藤原京、平城京など時代とともに移り、京都になった。考古学にも歴史にも疎いぼくだから正確かどうなのかまったく自信がないが、大阪に「難波京(あるいは難波宮)」があったことは立証されている、という事実は面白い。

少なくともぼくらの子供時代はそう習わなかった。NHK大阪放送局を建て直した時、地下に遺跡が発見され、現在は一般公開している。ぼくも数年前に観た。

歴史は「文献」によるものと「遺跡」から発掘されたものの研究が進んで「日本国」の形成期がだんだんわかってきたのだろうが、今も卑弥呼がどこにいたのか「倭国」はどこなのか、現在も謎で論争のテーマだ。それにしても大阪学に50人もの聴衆が熱心に講義を聞いていたこと自体、なかなか興味ある光景だった。

ボルネオの犀を探す

ガンで治験治療を続け1年経った。生活拠点を東京の下町に移したが、ゴミや大型家具の処理でいろいろ面倒な手続きがあり、実感として「地球は壊れかかっているなあ」との感想を抱いた。文明は何世紀にも渡って地球環境を破壊し「便利さ」を求めて開発を続けてきた。今やもう限界、との印象を強くもった。

2月9日午後2時20分から渋谷で「ボルネオの犀」を探そうというNPO、ボルネオ保全トラスト・ジャパン(BCTJ)の呼びかけ、現地報告会がありました。40人くらいの聴衆でしたが、ボルネオのジャングルに定住している石上淳一氏がジャングルの奥地に入り込み、現地の村人とともにカメラ・トラップを仕掛けた狙いを披露。ジャングル入りの一行と共にしたジャーナリスト・桐島瞬氏、カメラマンの柏倉陽介氏も同行の模様を写真を示しながら話しました。

ボルネオ島は世界で3番目の大きな島ですが、基本的に熱帯雨林地帯で野生動物はジャングルの中で生活しています。ボルネオの野生動物で有名なのはオラウータンやボルネオ象、犀などですが、その犀が捕獲保護されている雄雌2頭を除いて絶滅寸前といいます。しかし未だ人間が入っていない奥地の未踏のジャングルには生息しているのではないか、との期待を語っていました。

ボルネオ犀は非常に神経質な動物で人の匂いがするだけで逃げ、まったく姿を見せないそうです。2年前、犀の子供の足跡を発見、未だ「生息している」可能性に胸を躍らせています。しかし広大なジャングルで未踏の地域で犀を探索するという事になると巨額のお金と時間がかかります。できれば募金運動で探索のための資金を集めたい、とBCTJでは考えています。

ボルネオ島ではジャングルを切り拓いてパームヤシを植え、その実から油を絞り取って売っています。いい収入の道と言えるでしょう。日本のコンビニで売っている商品のほとんどにこのパームオイルが入っているそうです。ジャングルを切り拓いたパームオイル(ヤシ油)園は広大な広がりを見せ、そのため自然のジャングルが狭められて野生動物が生きてゆくことができなくなっています。

地元マレーシャのサバ州野生動物管理局は2015年、ボルネオ犀の絶滅宣言を出したそうですが、昨年7月、現地入りしたBCTJの顧問・坪内俊憲星槎大学教授と現地でカメラ・トラップを設置、野生動物の観察を続けている石上淳一氏は「(ボルネオ犀は)未踏の奥地に生息しているはず」と確信しており、今後、見つける運動を展開してゆきたいと語りました。途方もない広がりのジャングルで人間を恐れる犀を発見することは至難の業でしょうが、夢多きプロジェクトとも言うことができます。地球を破壊してきた文明は反省期を迎え、真剣にその方策をとって欲しいと期待しています。

ガンと同じで雲を掴むような話ですが、夢があっていい。

16歳でガンに罹った友人

1月4日、まさに新春早々、大阪の病院へ行った。定期検査、検診そして治験治療の点滴です。1回100~180万円を超えるとか。治験ですから正確な金額はあるようでない。最初が昨年2月14日だったから今やそれも22回余を受けていることになる。点滴前の薬を飲み30分休む。点滴は1時間。終わって2時間は病院内で休むことを義務つけられている。何が起きても医師がすぐ対応できるように、という体制だ。幸い一度も体に大きな変化は起きず、1時間半が過ぎると新幹線に間に合うよう新大阪へ急ぐ。路線バス(時にはタクシー)で最寄りの私鉄駅まで行き、なんばで乗り換え新大阪へ行く。そこで東京へ戻る新幹線に乗る、という道筋だ。慣れたようななかなか慣れないような気分です。

長年の友人、F君からメールが飛び込んだ。学生時代、新左翼だった。政党の機関紙の編集長をしていたから一見、ジャーナリストの雰囲気もありながら、政党の立場ははっきりしている。昔、LAからいろんな情報を記事として送った。特にジャパノロジストのインタビューや日系アメリカ人の歴史ものは意図的に送った。

彼のメールを読み驚いた。なんと16歳でガンに罹り死に直面したそうだ。ことしになって初めて知った。彼の許可を得て全文、掲載する。

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北岡さんががんを告知されたのが76歳と先日知りました。

話したことがなかったかも知れません、私は16歳のときにがんを告げられました。高校2年、1965年の2月でした。発熱がつづき、額のところに小さな突起物ができました。私は小学生の時に心臓弁膜症を早期発見した経験があり(それでも二か月入院しました)、体の変調にはすごく敏感になって生きていたのです。

それで父親と札幌の北大病院へ検査に行きました。その時の結果は異常なし、でした。その夜、札幌の姉の家に泊めてもらいましたが、どうしてもひっかかるのです。体内から、オカシイ、という声が聞こえてきている感じが抜けません。

それで、翌日、父親は千歳に帰りましたが、私1人、再度北大に行き、再検査をしてもらいました。若い医者が前日のレントゲン写真を丁寧に見直し、右の鎖骨のところがひっかかる、局部レントゲンを撮ってみよう、ということになりました。その結果、右鎖骨部に腫瘍があることが分かったのです。

医者はあわてました。とにかく、早急に対応しなければいけないが、北大病院へ入院するとなると時間がかかる、市内の病院に問い合わせてみる、と直ぐに受話器をとって電話を始めました。そして、清水脳神経外科という病院に空きがあり、翌日入院し、手術するように、とのことでした。あとで調べると、少年期の急速な生育のスピードによって肉体のズレが生まれ、肉と骨のところの違和ががんを生んだのだと、知りました。

当時、「愛と死を見つめて」という手記、それの映画が大ヒットしていましたが、あれも骨肉腫でした。私が、入院し、手術をして成功したとして、その後はどうなるのか? と聞くと、首から上に肉腫が上がるとアウトだが、そうでなければいい。しかし、25歳までは要注意だ、ということでした。16歳の私に実に率直に語ってくれたことに、いま思うと少々驚き、感謝をしたいですね。

室蘭線の三川という小さな駅に夜降り立つと、吹雪でした。家まで4キロを、吹雪の中を歩きました。その時に一番、死を考えたと思います。「それにしても早すぎるじゃないか」というのが一番の思いでした。

翌日は入院ですから、栗山の高校に行き、病名は伏せて入院することを担任に告げ、友人たちと別れました。病院では、3日後に手術をする。執刀するのは北大の医師チームだと告げられました。そうすると、48時間位しか自由な時間はありません。私はその時に、ドストエフスキーも読まずに死ぬのはつらいな、と思いました。

それで『罪と罰』を手術までに読みきろう、と決めたのです。看護婦さんに話すと了解してくれて、消灯後もスタンドを使うことを許してくれました。それで何とか、手術が始まるまでに読了したのです。

その時の経験がいまも生生しくて、その後『罪と罰』を手にしたことはありません。手術は、けっこう大掛かりなチームが撮影をしながら行われ、成功しました。親から直接に私のがんのことについて聞いたことはありませんが、弘前大に行っていた直ぐ上の兄に母親は私の病気のことを書いた手紙を出していました。普段、手紙を書くことはほとんどなかった母ですから、如何に動揺したかを随分後になって知ることになりました。

しかし、当時つきあっていた同期生の恋人以外には、誰にもがんのことは話しませんでした。同情というか、「不幸な人」というメガネで見られるのがいやだったのだと思います。手術は成功しましたが、再発の不安がいつも頭の隅にある青春時代となりました。大学で学生運動をしていても、毎年、秋になると高熱を出して寝込みました。生協で働くおばちゃんの家で何日も寝かせてもらい、不安に怯えることになったのです。同時に、人並みに企業に就職し、結婚し、という人生の進路は全然信じられないというか、そうは生きられない、生きてはいけないという思いが常にありました。

若く死ぬにしても、自分の人生を生ききった、と自分に言ってやりたい、人の所為や時代の所為にはしたくない、とそんな風でした。私が多分、他の活動家よりも本気度があったのは、そういう理由です。しかし、新左翼運動には未来はない、とその運動が一番高揚した1969年10月に思い始め、11月に社学同北海道委員長を辞任し、運動から退きました。

私が社会党中央本部に入ったのは30歳のとき。25歳を過ぎ、腫瘍の不安も薄らぎ始めたのですが、母親が私に「誠ちゃんのような人は、30歳ころまでは何をしてもいいけど、30歳になったら一生の仕事というのを見つけなさい」と言われたことを盾に(母親はそんなことを言った記憶はないと後から言ってましたが)、組織に属さない生き方をしていたのでした。

「死」と向き合わざるを得ない、というのは辛いことでしたが、しかし、物事を表面的に判断したり、誰かの所為にしないで、基本的にはお墓に入るときに、「まぁ、しっかり生きたよな」と自分に言えるような人生を考えてこれた、ということでは幸せだったと思っています。

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彼は確かぼくより10年若いはずだからいま、60歳代後半。確かにインデペンデントな人で、自分のやりたいことはきちんとやる、という生き方。几帳面な性格で大の映画ファン、彼からいろんな映画の解説を教えてもらった。有為な人も紹介してもらった。感謝している。政治好きなのか、今も国会を離れず、ボランティアで国会の情報を送ってくれる。素敵な人生だと思う。

2019年始動 ガンと共生へ

ぼくの77年の人生で2018年は最悪の年でした。1年間、東京と大阪を隔週で往還し、分子標的抗ガン剤と免疫を強化する点滴を受け、多くのガンは消滅または小さくなりました。ただ、ガン細胞は未だ体内に存在し、寛解には至りません。

若い医師の見立てでは「半寛解」のようです。ということはことしも隔週の大阪通院は続きます。1月4日、正月早々、病院通いとは・・・情けない気持ちもありますが、生きることの大切さを思えば愚痴を言っても始まりません。それにしてもガン患者のなんと多いこと。

1月18日17:00~新宿のインド料理レストランでトークショーを行いました。
48人の友人知人が集まってくださいました。
本ブログで何度も書きましたが、「ガンは治りません」
ですからガンとともに生きる覚悟が大切です。
世界も嫌な奴を抹殺しようとすれば戦争になります。自分と違っても相手の存在を認め共生する。それが世界平和に繋がるのだと考えています。
その意味ではトランプ米国大統領は最低、最悪です。
追随する安倍晋三も同類でしょう。
アメリカはトランプに「NO」をつきつけることができるのでしょうか。
オバマのアメリカとトランプのアメリカは相反する政治ですが、そこにアメリカをリードしてきた白人の苦悩が読み取れます。質疑含めて2時間ほど話しましたが、それなりに皆さんぼくの話に共感してくださったようです。

湘南から東京・深川へ

長期戦覚悟で、大阪へ通っています。隔週、茅ヶ崎~大阪、新幹線通院です。以前にも書きましたが、ぼくはことし喜寿。親父は喜寿の祝いを正月に家族一同集まってやったらその月末に亡くなりました。
この歳になって大変なことになった、と思いながらも一方で「いい経験だ」との思いもあります。ジャーナリストだからこそでしょうね。そしてガンが発見されてこの1年、集中的に新しい情報がどっと流れ込んできました。新しい人脈も増えました。ガンのお陰です。
20日、CTとMRIを撮り21日定期検査・健診で、ガン腫瘍マーカーはちょっぴり上がりました。主治医も判断できかねるようで、ガン細胞は消えていないモノがあるようです。抗ガン剤は飲み続けていますが、年末年始は休薬にしていただこうと話しました。
ぼくが受けている治験治療は「抗がん剤+免疫ポイント阻害剤(点滴)」というダブルでガンに対処している世界でも例のない試みです。劇的にガンが消えた例が30%くらいで、まったく効かない患者が7割だそうです。
ぼくの場合、その30%に入っているようでしかも短期間でガンが劇的に消え(未だ一部体内に残っているが・・・)、「記録破りだ」と主治医は語っていました。
昨年12月9日、茅ヶ崎市の病院でガンが見つかった時、「ステージ4」、末期ガンと言われ、放っておけば「余命3か月から6か月」(後日、「ステージ3」と修正されましたが)と言われたわけですからそれが正しければすでに三途の川を渡っていたはず。お陰で年は越せそうです。
免疫療法は、まさにノーベル賞を受賞された本庶佑先生が発見された「PD-F」を阻害する新薬で、小野薬品の「オプジーボ」ではなく、アメリカのファイザーが開発した免疫ポイント阻害剤。いま話題の小野薬品が開発した「オプジーボ」ではなく、アメリカの製薬会社が開発した新しい阻害剤です。
抗ガン剤の投薬と免疫ポイント阻害剤の両方を同時に試みているのは珍しく、「全世界」がその効果を息をつめて見守っているそうです。マスコミは「オプジーボ」を「奇跡の新薬」と大げさに報道していますが、実際には肝臓ガンに「効く」患者は30%くらいと限定的で、幸いぼくはその中に入っています。
毎日新聞が11月6日夕刊で「オプジーボの実力は?」という見出しで1面から2面にかけて特集しています。「ノーベル賞で注目 オプジーボは夢の薬か」「がんの効果限定的」とあるように”夢の薬”は限定的、というのが正しいようです。
ぼくはこの記事を宿泊した鶴橋のビジネス・ホテルで読んだのですが、詳しく報じているので、それを主治医に見せると彼は「この記事が正しい」と言いました。
抗ガン剤の副作用はなかなか厄介で、その日の身体の具合によって違いますが、何と言っても食事が不味く、食べたくない。ということで痩せています。
でもご心配なく。ぼくは元気です。12月3日湘南から東京・下町に引っ越します。息子の一家のマンションの隣りの駅から歩いて7~8分、東京駅からバスで20数分です。地下鉄なら10分。洲崎という遊郭のあった跡が安いアパートになり今はマンション乱立の都心に近い深川です。気楽な居酒屋を見つけました。お立ち寄りください。

免疫療法

肝臓ガンの治験治療を受けて8か月が過ぎた。多くのガンは消え、腫瘍マーカーも劇的に改善している。ただしガン細胞は体内に生きている、と考えるべきだという。10月24日の定期診察でもマーカーの数値は横ばいだが、上がっていない。これは現在、実施している免疫療法が「ガン細胞を抑え込んでいる」と見るべき、というのが代診に当たった若い医師の見解だ。

すでに本ブログで書いたとおり「長期戦」を覚悟しているから驚くことはない。完全に「正常」となるかどうかは分からない。ただ正常値に近くまで腫瘍が小さくなっている、という事実で、どうやら越年できそうです。

昨日23日は神戸で友人と会食した。高校の同級生で、今回、ノーベル賞の受賞が決まった本庶佑(ほんじょたすく)博士の京都大学医学部の同期生。2,000人のガンを切った、という医師だが、彼が送ってくれたメールを以下に紹介する。

ここで彼が述べている治療費だが、ぼくの場合「治験」なので治療に要する全費用を製薬会社が負担してくれる。その上、1日9,000円の日当が支給される。

ちなみに過去8か月の治験治療に使った抗ガン剤と点滴の費用は軽く1,500万円を超えているようだ。(未だ市販されていないので実費の詳細は不明)

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北岡君

貴兄の受けている医療の効果は、これまでの医療界の常識を遥かに超えた画期的なもので、いつも感心しています。

昨年の12月に電話をいただいた時には本当に驚いたものでした。化学療法しか助からない…しかし、私の頭にある化学療法は癌が少し縮小したものも含め、半分も有効率がない。もし抗がん剤が有効でなければ、ふつう6か月、有効であったとしても完全消失は望めないから、よくて2年かもしれない等と全く一人よがりのことを想像していました。

 そして、まず6か月をお勧めしたのは、6か月してもあまり効果がなければ免疫療法をお勧めしたいと思ったからです。昨年の段階で、肝癌の免疫療法には保険がきかなく1千万円を遥かに超えていたので、自己負担を覚悟で医療を受けなければなりませんでした。新しい抗がん剤で少し様子を見てから次の治療に移っても遅くはないと思ったものでした。

いま,貴兄の現在の治療に抗がん剤とともに免疫療法が含まれていることを知り、現在の治療をぜひ続けるべきだと信じています。

 かって消化器外科医として癌に対応したとき、進行した癌では、普通に言われているよりも徹底した手術をおこなっていたにもかかわらず(少なくとも肉眼的には癌を疑うようなものはない状態)、そしてまた術後に抗がん剤を使用しているのに、2,3年で再発する人が多く、がん治療の限界に涙したものでした。

貴兄が受けてきた医療の効果は、10年前の医療界の常識からすれば。奇跡としか言いようのないほど素晴らしいものです。命を買うつもりで現在の医療をもう少し続けてくれることを心より願っています。

「生の永遠」を探す旅

ヒトはなぜ死ぬのか。

10月16日、「生と死」の不思議を科学的に解明しようという研究に没頭している分子生物学者・T教授夫妻と新幹線で北へ向かった。盛岡で降り、駅前の著名な韓国レストランで冷麺定食を食べ、盛岡城公園まで歩いた。南部藩の城跡である。石川啄木の歌碑があった。

<不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心>

啄木は死んでも彼が詠った詩は生きている。啄木の心は永遠なのだ。もう一つ。

花巻へ向かう途中、高村光太郎記念館にも立ち寄った。実際に彼が晩年、創作活動していたちょっと大きめの物置小屋のような荒れた陋屋が、周囲をぐるり取り囲むように新しい建物で保護されていた。この小屋とは別に大きな光太郎記念館があり、彼の作品も10点ほど展示されている。ここでも「光太郎の作品と魂」は生きていた。

同行してくれた盛岡在の友人の記者含め4人で会食した。「温泉」と言っても昔の湯治場。個室は6畳、室内にはテレビと炬燵があるだけ。一泊4,200円。同じ建物の居酒屋のような薄汚れた食堂で南部の酒とつまみと会話を楽しんだ。

友人のH記者はロサンゼルス特派員の時、知り合った。彼は後にロンドン支局長となり、仲間と取材したノーベル賞について、『ノーベル賞の舞台裏』という本を書いた。日本人が受賞するとどの国よりもメディアが大騒ぎする報道を揶揄、批判しているが、中でも見逃せないのはノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作に対する評価である。佐藤は安倍晋三首相の大叔父、祖父・岸信介の実弟。長期政権だったが、後日、ノーベル平和賞を受賞、「ブラックユーモアではないか」と国内でも批判の声が強かった。

同書は「『ノーベル平和賞 平和への100年』の著者の一人で歴史家、オイビン・ステネルセンが公式の記者会見で『佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り』とまで言い切った」と書いている。非核3原則を国会で提唱した佐藤がアメリカと核密約を交わしたことがバレたからだ。

万能細胞の人工栽培に成功した京都大学の山中伸弥教授がノーベル医学・生理学賞を受賞した(2012年)事にも話が及んだ。その受賞にも医学界で毀誉褒貶が存在する。山中は記者会見で「まさに日本が受章したようなもの」と発言、日本では誰も問題にしなかったが、ノーベル賞委員会は激怒した、と言う。ノーベル賞は個人の研究、研鑽に努め、新しい科学の研究を前進させた実績に送られるもので「国家」に贈られるものではない。

東北へ向かう前日、東京で高校の同窓会があったが、参加者に「おめでとう」と言われて面食らった。彼女はぼくが「ガンによる死」から「生還」した、と喜んでくれたのだが、ぼくは一度も死んだことはない。ぼくはガンに罹っても生きているが、4人の学友がガンで死んだ。

 

 

北岡和義事務所

東京都在住

E-mail: kazuyoshi.kitaoka@gmail.com

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