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再会絶景

九州から電話をもらった。「最近、ブログを更新していないが、どうしてますか。心配している、との電話。申し訳ない。ブログがマンネリ化することを懸念して一度、休んだらなかなか再開できなかった。そのうち新しくガン細胞が見つかり休薬していた抗がん剤を復活した。大阪通院は続けている。

6月中旬、1週間ほどLAへ行った。仲間の熱心な誘いに同意したのである。LAでは4回、講演し「ガンとの共生」について語った。以下に掲載する。

死があって生がある~LA再訪、再会絶景(LAの個人誌から転載)

配属先の讀賣新聞千葉支局のドアを押した。留守番のような記者が一人いて、顎を上へしゃくった。二階へ行け、という意味だ。記者の異動があったらしく送別会で飲んでいた。新人のぼくに「座れ」と言いコップにビールを注いだ。誰も名乗らないしぼくのことも聞かない。車座になって飲み乱雑に議論している。

妙なところへ潜り込んだなあ、とヘンな気持ち、そのまま二次会に繰り出し仕方なくぼくも附いて行った。

新聞記者とはずいぶん非常識で無礼で傲慢な連中だな、というのが最初の印象。オリンピックが東京で開かれる1964年の春だった。・・・そして55年経った。

ぼくは独りで東京の下町のマンションで暮らしている。2017年12月に肝臓ガンが見つかり以降、大阪の大学病院で治験治療を受けて1年半になる。どこで聞きつけたのか、友人知人が見舞いだろう、訪ねてきた。

驚いたのは「ガン」という病気の衝撃力だ。多くが「死」のイメージを抱いている。ぼく自身、ガンだと告げられ「そうか。オレはやがて死ぬのか」となんとなく妙な気分で、死を初めてイメージした。「自分の死」がど~んと目の前に現れ立ちはだかった。

77歳、喜寿を迎えたその年、ぼくの父親は逝った。朝、おふくろが起きて親父の寝間に行ったら死んでいた。大往生だった。その日、新宿で参議院選に出馬した秦豊の激励パーティがありぼくが取り仕切っていた。すぐに駆け付けられない。

パーティが終わって800CCの空冷エンジン、白いトヨタ・パブリカで東名を西へ走った。実家は三重県の四日市。深夜着いた時、きょうだいが全員揃って話し込んでいる。

父はお棺の中で静かに眠っていた。実直な鉄道員人生で、昭和天皇のお召列車の専務車掌をやったことがプライドだった。戦争末期、インドネシアのバンドンの駅長をやった。エリート官僚ではない。踏切番や水汲みから出発した叩き上げのポッポ屋。車掌から助役になり、兄が生まれた時は愛知県の小さな駅の駅長だった。

その父の逝った年齢をぼくは今、生きている。長女はニューヨーク、長男は隣りの駅のマンションで妻と孫娘と4人暮らし。家内は日本橋に住んでいてぼくは独り住まい。典型的な日本の中産階級の少し哀しくも気楽な老後である。

27年近くロサンゼルスでジャーナリストとして住みアメリカを観てきた。学んできた。911同時多発テロに遭遇した時、「アメリカは衰退するな」と確信のような感情が盛り上がってきた。トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」というスローガンはWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)の連中の復権を叫んでいるのだ。でも時代は予想を超えてはるかに進んでしまった。

前大統領、バラク・フセインオバマがケニア人留学生とアメリカ白人とのハーフであることは周知のとおり。アップルの創業者、スチーヴ・ジョブズもシリア人留学生と白人女性との混血である。大坂なおみもサニブラウン・ハキームも日本人とのハーフである。今やまさにハイブリッドの時代なのである。

帰国した友人が馴染みの居酒屋で誘ってくれた。「北さん、LAに来ないか」と。

ぼくは最初、あまり乗り気ではなかった。「今さらLAでもあるまい」。でも入れ替わり友人が何度も来て「今の時代を好きな仲間と好きに生きるんだ」と楽しそうに言い、熱心に誘ってくれた。

フト、心が動いた。

「行ってみようかな。ずいぶん変わったそうじゃないの、LAは」

7月9日午後、羽田空港を発った大型機は1列9席もあった。9日朝、無事LAXに着いた。東北大震災の震災遺児救済キャンペーンで2012年3月に行って以来、7年ぶりだ。

翌日夜、トーランスのホテルで歓迎の夕食会が開かれた。

大半が旧知、友人やスタッフ、昔の仕事仲間だった。渡米直後会って以来、公私とも世話になったマユミさんは市場調査などを引き受ける事務所を開いている。公認会計士の竹チャンは会社を売り買いするビジネス・コンサルタントとなり世界中を飛びまわっている。メキシコのマキラドーラでセミナーを主催したおめでたい姓の彼はトラベル・コーディネーターの会社を経営していた。ニューオータニ・ホテルの宴会マネージャーだった紳士が宴会をアレンジしてくださった。ホロコーストを生き抜きアメリカへ逃げたユダヤ人をインタビューし書き上げた、ノンフィクション作家のきぬえさんの顔も・・・。隣席には外務省が「日本売り込み」に力を入れているジャパン・ハウスの館長もいた。

懐かしさがどっとこみ上げてきた。

確かにみんな少し老けたようだが、友人の瞳は輝き、昔のままの闊達な仲間たちだった。立ち代わり入れ替わり握手しあいさつし、ニコニコ再会を喜んでくれた。

ぼくは「出会絶景」という言葉が好きだが、今回ほど「再会もまた絶景なり」を実感したことはない。

地下鉄が開通したというのにLAのフリーウエイは信じられないほど混んでいた。ダウンタウンのビル街は深夜まで煌々と光が輝き不夜城のごとく蘇っている。それにリトルトーキョーのすぐ側にある6~7番街のホームレス村。簡易テントがずらり。「増えたなあ」との印象。10年前の数倍はいたように見えた。

翌日、アーバインの会場には110人を超える人たちが集まってくださった。ガンに対する関心が強いのだろう。遠くサクラメントやリバーサイドからも来てくれた。

「ガンは治りません」とぼくは語った。「でも(現代の医学の進歩で)ガンと共生することは可能です」「嫌な奴とも共生する。そうすれば戦争は無くなる。平和が訪れる」

ぼくはガンになっていろんな人からいろんな知識、情報をもらった。書棚にはずらりガンに関する本が並んでいる。闘病記もあれば医科学的解説書もある。ガンと生きたジャーナリスト、柳原和子の『ガン患者学』(晶文社)、『百万回の永訣』(中央公論)は印象に残る。

浜松で抗がん剤を否定して元気に生きている女性ジャーナリストがくれたのはノーマン・カズンズ著『笑いと治癒力』(岩波現代文庫)。メンタルな分野がフィジカルな肉体に微妙に影響する事実を書いた名著である。カズンズはアメリカ人ジャーナリストだが、医学に詳しくカリフォルニア大学医学部大脳研究所教授として医療ジャーナリズムを教えた。

荒っぽく言えば「ガンは笑い飛ばせば治る」という。暴論のようだが、カズンズの指摘に近年、医学界が真剣に耳を傾け、ガンを巡ってフィジカルとメンタルとの関係性を研究する医学者が増えているそうだ。

肝臓にガンが発見されたのは2017年12月9日。飲み友達だった市田隆文医博(湘南東部総合病院院長、元順天堂大学静岡病院教授)はCTとMRI撮影の映像を見ながら言った。

「ガンだよ、北さん、それもステージ4だ」。その意味がよく分からない。質問すると「末期ガン、余命3か月、長くて6か月くらいかな」と言い切った。

「へえ、オレは来年の半ばには死ぬのか」と思ったが、実感は湧かない。

市田医師の勧めで大阪の近畿大学病院の工藤正俊教授の治験治療を受けることになった。工藤教授は京大医学部の卒業で、肝臓ガンで画期的な実績をあげているトップクラスの医学者である。

2月14日から治験治療が始まり、抗ガン剤を飲み点滴を受けた。通院患者だから隔週毎に新幹線で大阪へ通った。なんとなく車中は虚しい。落ち込まない。落ち込まない、と自分に言い聞かせた。

ガン細胞の多くは消え、7月中旬ころの診察では「記録的(に効果があった)」と言われた。ところが抗がん剤の副作用は結構厳しく、食欲が減退、味覚が失われて何を食べても美味しくない。次第に痩せてきた。

ジャーナリスト・立花隆は2007年12月に膀胱ガンに罹り、NHKスペシャルのスタッフと「ガンとはそもそもいかなる病気なのか」ということを「多面的に正攻法で取り組んだ番組」(立花隆著『がん 生と死の謎に挑む』(文春文庫)を制作、放送した。

米国取材3回、ヨーロッパ2回、国内15回など文字通り多角的多面的に「ガンの正体」の解明に取り組んだ。その結果、「ガンは個性的であり、(現在の医学では)治らない」というのが結論であった。

友人だったノンフィクション作家・柳原和子も「ガンは個性的」と同じ言葉で書いている。

個性的とは一人一人違う、ということであり、医学はガンを極めることはできない。人間の個性と同じで「決めつけるものは何もない」~分からない、ということである。

ぼく自身、ガンに罹ったから言うのではなく「ガン」と「死」は無関係ではないか、との思いが強い。「ガン」=「死」という既成概念から抜け出すことから(自分の治療が)始まると考えた。

「死」は誰にもやって来る。これを否定する者はいない。だけど「自分は未だ死なない」と(何の理由もなく頑固に)信じている。それに対し「ガン」患者は「死」が近い、と思う。正しいか、間違っているか、ではなく、この呪文から抜け出すことが第一ではないか。

だからぼくは「死ぬまでしっかり生きる」という、心情を語った。太平洋を飛んでLAまで行き、当たり前のことを言ったのに過ぎないのに意外と多くの人々が共感してくれた。考えてみればみんな悩んでいるのだ。

主催者が好意でアンケートを取り、同時にカンパを呼び掛けてくれた。後に主催者からアンケートとカンパが届けられた。多くの感想が共感の言葉で溢れ、「バカな事を言うな」とお叱りのメッセージは一つとしてなかった。

カンパは航空券代の半額近くの額を数えた。お寄せくださった皆さんに深謝である。

遠い過去から人間は何一つ「極めた」ことがない。ギリシア、ローマの時代から西行や鴨長明や松尾芭蕉や・・・。平家物語もまた権力を巡る人間どもの愚かさを琵琶の音を打ち鳴らしながら儚く語り継ぐ。

ポスト印象派のフランス人画家、ポール・ゴーギャンが描いた作品。

<われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか>

同じ問いを発しながら人間の個体は逝ってしまう。また来てまた去る。

同じ疑問を発し同じ疑問に呻き同じ疑問に悩み同じ疑問を棄て去って逝く。

ガンになって偶然、知り合った東京理科大学教授、田沼靖一博士は「死」を研究する分子生物学者である。『ヒトはどうして死ぬのか』(幻冬舎新書)、『遺伝子の夢』(NHKブックス)などを書き、魅惑的なテーマに取り組んでいる。

ヒトの個体は40兆個(以前は60兆個と言われた)の細胞からなり、各細胞は遺伝子を有している。その中に「死の遺伝子」があることが分かった。アポトーシスと言う。

アポトーシスは細胞に「死」を命じている。従って細胞は命じられたとおり死ぬ。皮膚や頭皮の細胞は数日で死ぬものがある。それがフケになる。

ところがアポトーシスの細胞が何らかの原因で死ななくなることがある。するとその細胞はどんどん大きくなる。これがガン腫瘍であり、やがて個体そのものを死に至らせる。分子生物学はそこまで突き止めたが、その先、アポトーシスが命じる死に到る機序が解明できない。それにはもっともっと時間がかかる。

だからガンは治らない。

ぼくが小さなテレビ局で日本語のニュース番組を始めた時、実質的に取材や撮影、編集、出演など積極的に手伝ってくださった女性とも会えた。始めたころは1985年、それから34年経った。当然、溌溂として、美しく愛らしかった彼女もそれ相当に老いていた。でも人柄はほとんど変わらない。私的な悩みも抱えている。

ガーデナのファミリー・レストランで2~3時間話し合った。

デスバレーで正月を迎えた番組を制作し、アラスカの原油を汲み取っているプルドベイまで現地ロケした。野生を追いかけていた写真家・星野道夫君(故人)やアラスカ大学でオーロラの世界的研究者・赤祖父俊一博士にインタビューした。犬橇の耐久レースに挑戦していたサラリーマンにも取材した。撮影は楽しかった。いまやゆかしい。

7月4日のCT撮影でガンが新しく増えていることが分かった。抗ガン剤を休薬して2か月、点滴は続けていたが、医師は新生のガン細胞の現象を説明できない。

治療を転換する時期かも知れない。ガン治療にはいろんなアプローチがある。肝臓動脈にカテーテルを突っ込み、抗ガン剤を吹き付け栓をする塞栓療法や放射線でガン細胞をピンポイントで焼き切る方法。抗ガン剤でガンを抑える。外科手術で切り取るなど。

ぼくのガンとの共生は続く。いつまでも続く。

北岡和義事務所

東京都在住

E-mail: kazuyoshi.kitaoka@gmail.com

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