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食品の安全と訴訟・・・和解

LAの友人から電話あり帰国中だという。久しぶりに日本橋人形町で会った。彼は大手食品会社の現地駐在員として1985年に渡米、アメリカ人を相手に豆腐を販売するという途方もないビジネスを始めた。途方もない、と書いたのは当時のアメリカで日本(韓国、中国にもあるが)の豆腐なんて誰も知らない食品である。大豆はアメリカ人が「嫌い」な食品第一位で、「あれは家畜の餌」程度の認識しかなかった。しかし企業者とはいつでも事業の拡大を意識しているのだ。30数年前にすでに日本食をアメリカ市場で販売したい、という意図を抱いていた。海外販売を真剣に考える経営者がいたのである。成功すれば市場の規模は一挙に拡大する。

しかし豆腐と言う食品には難問がある。腐り易いのだ。腐らない豆腐を開発せよ、よいう課題を与えられ、研究開発した結果、豆腐を真空パックで5重に包み、内部を真空状態にして豆腐の腐敗を防いだ。腐らない豆腐が完成して、いざ売り出そうというところで「政治」にぶつかった。

大企業は中小零細企業のビジネスに参入してはならないという法律が国会を通った。日本共産党が主導した立法だという。大手食品メーカーだった彼の会社は豆腐のような零細ビジネスに手を出したらいかん、という。腐らない豆腐は日本で売れないことになった。プロジェクトのメンバーはいろいろ調査した。

当時、中近東の石油企業が事業を拡大し、中国や韓国から出稼ぎ労働者が数十万人に膨れ上がっている、という情報があり、彼らは豆腐を好む。チャンスだ、と彼は砂漠の国々に豆腐を売りに出かけた。確かに現地の中国人や韓国人には好評で、飛ぶように売れた。だが石油ビジネスもオイルショックでビジネスに陰りが出て、アジア人労働者は減少し始めた。そこで目を付けたのがアメリカだったという。

周知のとおり豆腐は大豆でできており、大豆たんぱくが健康にいいことは知られていた。「健康食」をキャッチフレーズに売り出そうと彼はLAXに降り立ったのである。

なぜ彼の話を始めたかというと健康と病気は日々、食べるものと直接関係する。取り分けガン患者は食品に留意する必要がある、食べ物でガンが治ったという話もある。豆腐は健康食、身体にいいのである。

彼は本社から輸入から輸入した真空パックの腐らない豆腐を大々的に売り出した。なにしろテレビで宣伝も始めたのである。ハリウッドの俳優、パット・モリタをキャラクターに「フレッシュ豆腐」を宣伝に販売を始めた途端、訴えられた。「新鮮」とはインチキだ、と。

それでも彼は毎週末、日本食マーケットに前掛けして出かけ、夫人や子供まで動員して豆腐を売りまくった。そのころ、政権は民主党のビル・クリントン大統領で、ヒラリー夫人が「豆腐は健康にいいわよ。いつもビルに食べさせているの」と」ラジオで発言したのを聴いた彼はホワイトハウスに豆腐を贈った。

後日、彼は「ミスター・トーフ」と呼ばれ、自認もした。マイカーのナンバーも「TOFU1」とした。20年後、豆腐は健康食として米国市場に受け入れられポートランドに工場を建て、現地生産するほど成功した。アメリカで「TOFU」は英語となった。今や誰一人知らない者はいないだろう。

久しぶりに人形町の北海道料理店で会い、旧交を温めた。小さな成功だろうが、彼は農水大臣賞を受賞、名古屋の私立大学の客員教授に迎えられ、全国から講演依頼が来ている。

1941年樺太生まれ、ぼくと同年。敗戦で引き揚げ、北海道足寄町で育った。学校教員の次男である。足寄と言えば寒い北海道でも一番冷える十勝平野の真ん中に位置し、帯広市と阿寒湖の中間にあるだだっ広い町だ。ビート、ジャガイモ、大豆、トウモロコシなどを生産しているが、衆議院議員の鈴木宗男や歌手の松山千春が出たことでも知られる。

本ブログで以前、足寄にドライヴしたことを書いたのだが、彼の故郷を訪ねてみたかったからだ。言うまでもなく彼はぼくのテレビ番組のスポンサーになってくれた。

その彼が豆腐の生産・販売を定年退職、兄弟がLAで始めたコンニャクを生産、販売する会社に移ったが・・・。食品の安全問題で訴えられた。(以下、次回につづく)

「生と死と」想いは募る

清水透(慶応大学名誉教授)が東京・中日新聞に連載している「インディオの村通い40年<いのち>みつめて」が2月4日から始まったが、平易な文章にメキシコの辺境の村のインディオとの交流、娘さんの白血病発症と死、そして日本とインディオの村を往還して見えてきたことについて書いている。以下はご本人の承諾を得てメールを下部に転載する。

北岡さん、連載、最後までお付き合いいただきありがとうございました。


> 「生きる」意味をぼくも真剣に考えています。
> ぼくらは真帆さんの3倍も生きている。
> でもぼくらは「幸せ」で真帆さんは「不幸」だったのか。(以上3行はぼくが送ったメール)

そこなんですよね。よく人は善意ではあれ「真帆さんの分も生きなきゃ」などと
「慰めて」くれました。交通事故や殺人ならまだしも、「生き切った」と信じた
い遺族の気持ち、経験者でないとなかなかわからないものです。

娘自身、旅立ちの2週間前、最後の一か八かの治験治療に入る直前、判読できる
最後の文章を残しています。
「・・・・別にこれを最後の文章にしてみなさんにあいさつしているつもりでもないです。・・
骨髄移植のときダメになったとしても、後悔していなかっただろうし、今度も一緒です。
・・・本気で人生どれ程生きて充分なことはなくて内容だと思えるようになったと思う。
・・・やり残していることいっぱいあるけど、もしかして私って、普通の人の味わえる楽しい
ことや嬉しいこと、やらせていただいたのかもしれない。だって楽しかったもの、いつ思い
出しても。私はいつだって自分が好きだったよ。自分が得意だった。思い上がりかもし
れないけど、たくさんの人に愛されていることを実感してきた。運もよかったし。・・・」

僕はこの文章から、いろいろ学ばせてもらいました。人間、個として生を受け、個として旅立ってゆく。その「孤独」をしっかりと引き受けている姿を、娘に感じます。

3月中はずっと東京におりますので、また一杯、ご一緒できれば幸いです。…(以上、清水透からのメール)

ぼくは18年前、突如、LAのオフィスに現れた小柄な中年の男の姿を思い浮かべた。知人の紹介で会ってほしい、との電話があり、ロサンゼルスのオフィスにやってきたのが清水だった。インディオの研究をしているという。文化人類学者かと思ったが、専門は歴史学者だそうだ。

娘さんの真帆さんが白血病で逝ったが、生きる最後まで病床で骨髄移植の登録運動を続けていたという。当時、白血病の治療法は血液型などのタイプが合う人からの骨髄を移植する以外に助かる方法は無かった。しかし骨髄提供を登録してくれる人は微々たる数だった。娘の遺志を継いで骨髄バンク登録のキャンペーンにやって来たそうだ。

真帆さんは、この骨髄の提供を呼び掛ける運動を病床から続けて、23歳という女性としてもっとも美しい年代に逝った。清水は骨髄登録を訴える演劇グループを率いてLAにやって来たという。2001年8月の初旬だった。

リトルトーキョーの日米劇場で上演された芝居は「友情」。白血病に倒れ、抗ガン剤で毛が全部抜けてしまい、禿を恥ずかしがる若い女生徒をクラスの仲間が全員丸坊主になって「これで同じじゃん」とばかり病床の彼女を応援、励ます、というシカゴの高校であった実話を演劇にしたそうだ。

「親父としてなんとか真帆の呼びかけを続けたい」小柄な清水の目は哀しみを越え光っていた。ぼくは協力を約束し番組で紹介した。公演は2001年8月11、12日だった。1か月後、911同時多発テロが発生した。

ぼくは帰国して清水と再会した。彼の蓼科の山小屋のような別荘にも泊めてもらい焚火を囲んで二人だけで深夜まで語り合った。「生きる」ことと「死ぬ」こと。真帆さんの死をめぐって話していたところへ野生のタヌキが忍び寄ってきてぼくらの会話を聴いていた。

もちろんその時、ぼく自身がガンに罹るんなて思いもしなかった。でも清水は「生きること、生ききること」に真剣で、機会を作ってメキシコのインディの村に日本から通っていた。ある意味で不思議とも思える執念を実感した。

「当事者しか分からんもんね」清水は言った。真帆さんの死のことか。ぼくは沈黙したまま頷いた。連載は、常に搾取され痛めつけられてきたのはマイノリティ(少数者)であり、貧しく生きてきたことを淡々と書き綴っている。清水は彼らに心底共感していた。その陰に思わぬ”事実”が隠されていたことを後日、知った。

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核と原発とガンと

国宝・松本城はずいぶん周辺含めきれいに整備されていた。天気が良かったこともあって松本城は蒼穹に見事な構図となっていた。3月2日、信濃毎日松本本社で日本ペンクラブ主催の「平和の日」の集い、「サイレントマジョリティになるな」が開かれ、平和委員会の一員として参加した。雨の新宿バスセンターから高速バスで松本まで行き、大阪毎日テレビの元ディレクターと落ち合い、イベントに参加した。テーマは信州大学の学生たちが考えたという。

講師は作家の浅田次郎・あさのあつこ・ドリアン助川・と信毎論説委員長の 丸山貢一 の4人。これまた若者の提案でステージを作らずフラットなフロアを4ブロックに分け、講師と語り合うという趣向。2時間の議論はどのブロックも白熱し時間足らずの印象だった。

懇親会に移り、ワインを飲みながら交流した。若者らはイベントの進行を進め、講師がたじたじとする場面もいばしば見られた。若い世代が「沈黙」してるわけではない。現在の日本へモノ申す若い世代がいて初めて現状況への提言がリアリティを感じさせる。彼ら彼女らはぼくにとっては孫の世代だが信大生らは溌溂として眩しかった。

この後、吉岡忍会長らと少人数でバーへ行った。そこで京都大学原子炉研究所(現複合原子力科学研究所)の助教だっ小出裕章に会った。東北大生の時代から一貫して原発の危険性を警告し、反原発の書を多く書いている。

小出は東京・上野の生まれで東北大学工学部で原子核工学を学んだ核問題の専門家。ぼく自身、311以降、小出の講演を聞いたことがある。

小出は山岳大好きの山男、京大を退職すると目前にアルプスが見える松本を選んだ。ワイングラスを傾けながら日本の原子力政策の破綻を親しく聴く時間を楽しんだ。ぼくは「核廃絶と憲法9条保持」を自分の生き方の信条としている。

日本が非武装の憲法を73年間保持し続け、その間一度も自衛官は他国の人間を殺していないし、殺されていない。その重い意味を噛み締めているのだが、現政権はぼくの考え方と真逆の政策を進めている。

松本で小出に会えたこと、天祐かも知れない。翌日、東京へ戻って小出からメールを貰った。ぼくとまったく同じ死生観を指摘され、幸せな気分に浸れた。水が緩んだらまた松本を訪ねたい。以下に小出のメールをおゆるしいただき、転載する。

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こんにちは。
 メールと「静岡新聞」の記事、ありがとうございました。
 「眼光鋭い権力批判の合間に、不意に見せるやさしい笑顔」は先日お会いした時に感じました。
 私が北岡さんに向かってこんなことを言うのは失礼ですが、生死についての考え方が北岡さんと私とでとても近いと思います。
 余計なものですが、3年程前に「早稲田文学」に書いた拙文を添付させていただきます。

 (途中略)

 「共産党」が何を言い、何をやったのかを明らかにすることも大切と思います。
 原子力発電は生産力の発展のために必要だ。今の日本の原子力発電は資本家のためで悪だが、自分たちが政権を取った時には推進すると彼らは言い、絶対否定の私はさんざんバッシングを受けました。

「戦争を知る者世代」の責務として語り継いでくださるとのこと、ありがたく思います。

              2019/3/4  小出 裕章

北岡和義事務所

東京都在住

E-mail: kazuyoshi.kitaoka@gmail.com

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