ホーム » 2019 » 2月

月別アーカイブ: 2月 2019

青春謳歌

赤坂で食事が始まった時、携帯が鳴った。孫娘からだった。

「おじいちゃん、受かったよ」

希望の大学受験に合格したという報せ。幸福感がひたひたと沸き上がる。生きていることは素晴らしい。

「おめでとう!」青春謳歌の時である。

ぼくの人生でもっとも嬉しかったのは高校受験に合格したときと自動車の運転免許証を取ったとき。いずれにせよ一つのハードルを越えるという事は自分の行動の可能性が広がるという事でもある。4月入学する大学は在学中、留学を義務つけているそうで、これからの若者にはとてもいい制度だと思う。

自分の国でない国を観ること、知ること、自分とコミュニケーションできない人を理解することがどんなに難しいか。言葉はもちろん文化や宗教や風習が違うという人々、それ自体を知ることが大切なのだと思う。いや、同じ日本国内でも高知の山奥の人口400人の村人の生活は都会に住むぼくらが理解するのは難しい。辺野古を埋め立てられつつある沖縄県で今日24日、朝から住民投票が行われているが、その住民の意思表示が示されても政府によって政策が変更される可能性は限りなく狭く小さい。。

現実には政府が国会で多数党である限り、やりたい放題、沖縄県の人々の反基地感情を逆なでする政策がどんどん進められてゆく。その現実さえぼくらは実感として理解することが難しい。沖縄を訪れるたびに痛感した。

その難しい社会を大学生になったら理解するだけの勉強をしてほしい。

洲崎遊郭跡を巡る

昨秋「ヒトはどうして死ぬのか」というなかなかチャーミングな研究をしている分子生物学者と親しくなった。彼が書いた本を読むことを条件に東京理科大学の研究室を訪ねた。その書には「死の遺伝子の謎」というサブタイトルがついている。

考えてみればこれまでの生物学、医学の研究は「生きる」ことの研究であり「死」をテーマにした研究とはなかなか興味深い。で、気さくな彼と仲良しになり、いろいろ教えていただく機会が増えた。

「アトポーシス」という言葉も知った。「死の遺伝子」を指す。本ブログの冒頭部分に書いたので、読み返してみて欲しい。どうして人間に死が訪れるのか。なぜぼくらは「死」を恐れるのか。

昭和天皇の最期の3か月を想い出してほしい。ぼくは当時、LAにいたが、あるテレビ会社と24時間、拘束される契約をした。いかなる時もいざ、天皇崩御となれば取材に行ける体制を請け負い3か月続いた。

1989年1月7日、その日が来た。ぼくはLAダウンタウンのコンベンション・センターで国際モーターショーの取材をしていた。トヨタが初めてレクサスと言う超高級車をリリースした。静かなエンジン音の素晴らしい車だった。ぼくはカメラマンにそれを撮影させ、米国トヨタ社長にインタビューした。その時、腰のポケベルが鳴った。(当時は携帯電話なんて持っていなかった)慌てて公衆電話に飛びつき東京のテレビ局の国際部デスクをコレクトコールで呼び出した。「昭和天皇崩御、ただちに取材に入ってくれ」デスクの緊張した声を耳に、カメラマンを急かせ日本人町リトルトーキョーへ走った。

それが「昭和最後の日」のぼくだった。なぜ、ぼくらは「死」に鋭く反応するのだろうか。昭和天皇の死は世界を駆け巡った。そしてぼくらは「平成」という時代を迎えた。その平成もあと1か月余で終わる。今上天皇が生前退位を希望したからである。

そのアトポーシスを教えてくださった研究者夫妻が2月19日、ぼくの住む下町にやってきた。この地は洲崎遊郭といって公娼制度が廃止されるまで男の遊び場だった。明治期、森有礼初代文部大臣が東大のすぐ側に根津遊郭があったことから、埋め立て地だった洲崎に遊郭を移させたという。今もその跡地が残っていて、遊郭で亡くなった遊女らの慰霊碑もある。

東京の古い下町と新しいマンションが立ち並ぶちょっと変わった町である。嬉しいことにこちらに引っ越して客が頻繁に訪れる。住宅街のど真中に居酒屋がある。昔風の魚屋も銭湯もある。なかなか住み心地のいい街である。

吉岡ペン例会

2月15日17:30~日本ペンクラブの例会に顔を出した。出席者の大半が未知の人である。吉岡忍会長になって新会員が増え、全体に若返っているようだ。組織にとって結構なこと。昨秋、高松市で開かれた「ふるさとと文学、菊池寛」の模様を撮影した映像を上映、バイオリニスト・佐藤久成の生演奏があった。

昨年完成した出版クラブの新館で行われたが、場所は神田神保町で従来の神楽坂よりはるかに行きやすいが、会費のわりに食事がお粗末、酷かった。環境委員会の山本源一氏と話した。中村敦夫(紋次郎)の独り芝居・朗読会が各地で好評で満員が続いているそうだ。4月27日、東京・杉並公会堂で行われるが、チケットはほぼ売りつくされそうだ。

ペン例会の後、親しい仲間数人と二次会に行き、楽しく語り合った。多くの会員の悩みが実親の介護。そのために例会に出られない人がいる。でも皆さん意気軒高、小説を書き続けている人も少なくない。ペンクラブらしい。

3月2日松本市の信毎メディアガーデンで「平和の集い」が開かれる。身体の調子も悪くないので行こうと思っている。去年は沖縄で開かれたが、ガン対処で行けなかった。

大阪に難波京があった?

2月13日の定期検査・検診ではあまり大きな変化はなく、ガンの腫瘍マーカーは低位で落ち着いている。主治医の話では「いま、すぐ命に係わる状況ではない」との話。大阪通院を始めて満1年経った。

2月12日夜、大阪に着いて友人が主宰している大阪自由大学の講義を覗いた。テーマは「未完の難波京」。考古学の発掘が進むにつれ大阪に天皇の宮があったことが分かってきた。実際に発掘に当たってきた考古学者の話だからウソは無い。

大阪都構想を主唱している橋本徹(元大阪市長)が小躍りして喜びそうな話だが、大阪に「宮」(天皇の所在する宮廷)があったことは発見された遺跡で証明できるが「京」と言えたかどうかは専門家でも未だ定見はない。

「京」とは天皇が住む宮廷があり、そのしもべがいて政事を行う。同時に庶民が定住して商売し町を作った、という事実を指すのだそうだ。だから日本最古の京は飛鳥京、藤原京、平城京など時代とともに移り、京都になった。考古学にも歴史にも疎いぼくだから正確かどうなのかまったく自信がないが、大阪に「難波京(あるいは難波宮)」があったことは立証されている、という事実は面白い。

少なくともぼくらの子供時代はそう習わなかった。NHK大阪放送局を建て直した時、地下に遺跡が発見され、現在は一般公開している。ぼくも数年前に観た。

歴史は「文献」によるものと「遺跡」から発掘されたものの研究が進んで「日本国」の形成期がだんだんわかってきたのだろうが、今も卑弥呼がどこにいたのか「倭国」はどこなのか、現在も謎で論争のテーマだ。それにしても大阪学に50人もの聴衆が熱心に講義を聞いていたこと自体、なかなか興味ある光景だった。

ボルネオの犀を探す

ガンで治験治療を続け1年経った。生活拠点を東京の下町に移したが、ゴミや大型家具の処理でいろいろ面倒な手続きがあり、実感として「地球は壊れかかっているなあ」との感想を抱いた。文明は何世紀にも渡って地球環境を破壊し「便利さ」を求めて開発を続けてきた。今やもう限界、との印象を強くもった。

2月9日午後2時20分から渋谷で「ボルネオの犀」を探そうというNPO、ボルネオ保全トラスト・ジャパン(BCTJ)の呼びかけ、現地報告会がありました。40人くらいの聴衆でしたが、ボルネオのジャングルに定住している石上淳一氏がジャングルの奥地に入り込み、現地の村人とともにカメラ・トラップを仕掛けた狙いを披露。ジャングル入りの一行と共にしたジャーナリスト・桐島瞬氏、カメラマンの柏倉陽介氏も同行の模様を写真を示しながら話しました。

ボルネオ島は世界で3番目の大きな島ですが、基本的に熱帯雨林地帯で野生動物はジャングルの中で生活しています。ボルネオの野生動物で有名なのはオラウータンやボルネオ象、犀などですが、その犀が捕獲保護されている雄雌2頭を除いて絶滅寸前といいます。しかし未だ人間が入っていない奥地の未踏のジャングルには生息しているのではないか、との期待を語っていました。

ボルネオ犀は非常に神経質な動物で人の匂いがするだけで逃げ、まったく姿を見せないそうです。2年前、犀の子供の足跡を発見、未だ「生息している」可能性に胸を躍らせています。しかし広大なジャングルで未踏の地域で犀を探索するという事になると巨額のお金と時間がかかります。できれば募金運動で探索のための資金を集めたい、とBCTJでは考えています。

ボルネオ島ではジャングルを切り拓いてパームヤシを植え、その実から油を絞り取って売っています。いい収入の道と言えるでしょう。日本のコンビニで売っている商品のほとんどにこのパームオイルが入っているそうです。ジャングルを切り拓いたパームオイル(ヤシ油)園は広大な広がりを見せ、そのため自然のジャングルが狭められて野生動物が生きてゆくことができなくなっています。

地元マレーシャのサバ州野生動物管理局は2015年、ボルネオ犀の絶滅宣言を出したそうですが、昨年7月、現地入りしたBCTJの顧問・坪内俊憲星槎大学教授と現地でカメラ・トラップを設置、野生動物の観察を続けている石上淳一氏は「(ボルネオ犀は)未踏の奥地に生息しているはず」と確信しており、今後、見つける運動を展開してゆきたいと語りました。途方もない広がりのジャングルで人間を恐れる犀を発見することは至難の業でしょうが、夢多きプロジェクトとも言うことができます。地球を破壊してきた文明は反省期を迎え、真剣にその方策をとって欲しいと期待しています。

ガンと同じで雲を掴むような話ですが、夢があっていい。

16歳でガンに罹った友人

1月4日、まさに新春早々、大阪の病院へ行った。定期検査、検診そして治験治療の点滴です。1回100~180万円を超えるとか。治験ですから正確な金額はあるようでない。最初が昨年2月14日だったから今やそれも22回余を受けていることになる。点滴前の薬を飲み30分休む。点滴は1時間。終わって2時間は病院内で休むことを義務つけられている。何が起きても医師がすぐ対応できるように、という体制だ。幸い一度も体に大きな変化は起きず、1時間半が過ぎると新幹線に間に合うよう新大阪へ急ぐ。路線バス(時にはタクシー)で最寄りの私鉄駅まで行き、なんばで乗り換え新大阪へ行く。そこで東京へ戻る新幹線に乗る、という道筋だ。慣れたようななかなか慣れないような気分です。

長年の友人、F君からメールが飛び込んだ。学生時代、新左翼だった。政党の機関紙の編集長をしていたから一見、ジャーナリストの雰囲気もありながら、政党の立場ははっきりしている。昔、LAからいろんな情報を記事として送った。特にジャパノロジストのインタビューや日系アメリカ人の歴史ものは意図的に送った。

彼のメールを読み驚いた。なんと16歳でガンに罹り死に直面したそうだ。ことしになって初めて知った。彼の許可を得て全文、掲載する。

************************************

北岡さんががんを告知されたのが76歳と先日知りました。

話したことがなかったかも知れません、私は16歳のときにがんを告げられました。高校2年、1965年の2月でした。発熱がつづき、額のところに小さな突起物ができました。私は小学生の時に心臓弁膜症を早期発見した経験があり(それでも二か月入院しました)、体の変調にはすごく敏感になって生きていたのです。

それで父親と札幌の北大病院へ検査に行きました。その時の結果は異常なし、でした。その夜、札幌の姉の家に泊めてもらいましたが、どうしてもひっかかるのです。体内から、オカシイ、という声が聞こえてきている感じが抜けません。

それで、翌日、父親は千歳に帰りましたが、私1人、再度北大に行き、再検査をしてもらいました。若い医者が前日のレントゲン写真を丁寧に見直し、右の鎖骨のところがひっかかる、局部レントゲンを撮ってみよう、ということになりました。その結果、右鎖骨部に腫瘍があることが分かったのです。

医者はあわてました。とにかく、早急に対応しなければいけないが、北大病院へ入院するとなると時間がかかる、市内の病院に問い合わせてみる、と直ぐに受話器をとって電話を始めました。そして、清水脳神経外科という病院に空きがあり、翌日入院し、手術するように、とのことでした。あとで調べると、少年期の急速な生育のスピードによって肉体のズレが生まれ、肉と骨のところの違和ががんを生んだのだと、知りました。

当時、「愛と死を見つめて」という手記、それの映画が大ヒットしていましたが、あれも骨肉腫でした。私が、入院し、手術をして成功したとして、その後はどうなるのか? と聞くと、首から上に肉腫が上がるとアウトだが、そうでなければいい。しかし、25歳までは要注意だ、ということでした。16歳の私に実に率直に語ってくれたことに、いま思うと少々驚き、感謝をしたいですね。

室蘭線の三川という小さな駅に夜降り立つと、吹雪でした。家まで4キロを、吹雪の中を歩きました。その時に一番、死を考えたと思います。「それにしても早すぎるじゃないか」というのが一番の思いでした。

翌日は入院ですから、栗山の高校に行き、病名は伏せて入院することを担任に告げ、友人たちと別れました。病院では、3日後に手術をする。執刀するのは北大の医師チームだと告げられました。そうすると、48時間位しか自由な時間はありません。私はその時に、ドストエフスキーも読まずに死ぬのはつらいな、と思いました。

それで『罪と罰』を手術までに読みきろう、と決めたのです。看護婦さんに話すと了解してくれて、消灯後もスタンドを使うことを許してくれました。それで何とか、手術が始まるまでに読了したのです。

その時の経験がいまも生生しくて、その後『罪と罰』を手にしたことはありません。手術は、けっこう大掛かりなチームが撮影をしながら行われ、成功しました。親から直接に私のがんのことについて聞いたことはありませんが、弘前大に行っていた直ぐ上の兄に母親は私の病気のことを書いた手紙を出していました。普段、手紙を書くことはほとんどなかった母ですから、如何に動揺したかを随分後になって知ることになりました。

しかし、当時つきあっていた同期生の恋人以外には、誰にもがんのことは話しませんでした。同情というか、「不幸な人」というメガネで見られるのがいやだったのだと思います。手術は成功しましたが、再発の不安がいつも頭の隅にある青春時代となりました。大学で学生運動をしていても、毎年、秋になると高熱を出して寝込みました。生協で働くおばちゃんの家で何日も寝かせてもらい、不安に怯えることになったのです。同時に、人並みに企業に就職し、結婚し、という人生の進路は全然信じられないというか、そうは生きられない、生きてはいけないという思いが常にありました。

若く死ぬにしても、自分の人生を生ききった、と自分に言ってやりたい、人の所為や時代の所為にはしたくない、とそんな風でした。私が多分、他の活動家よりも本気度があったのは、そういう理由です。しかし、新左翼運動には未来はない、とその運動が一番高揚した1969年10月に思い始め、11月に社学同北海道委員長を辞任し、運動から退きました。

私が社会党中央本部に入ったのは30歳のとき。25歳を過ぎ、腫瘍の不安も薄らぎ始めたのですが、母親が私に「誠ちゃんのような人は、30歳ころまでは何をしてもいいけど、30歳になったら一生の仕事というのを見つけなさい」と言われたことを盾に(母親はそんなことを言った記憶はないと後から言ってましたが)、組織に属さない生き方をしていたのでした。

「死」と向き合わざるを得ない、というのは辛いことでしたが、しかし、物事を表面的に判断したり、誰かの所為にしないで、基本的にはお墓に入るときに、「まぁ、しっかり生きたよな」と自分に言えるような人生を考えてこれた、ということでは幸せだったと思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼は確かぼくより10年若いはずだからいま、60歳代後半。確かにインデペンデントな人で、自分のやりたいことはきちんとやる、という生き方。几帳面な性格で大の映画ファン、彼からいろんな映画の解説を教えてもらった。有為な人も紹介してもらった。感謝している。政治好きなのか、今も国会を離れず、ボランティアで国会の情報を送ってくれる。素敵な人生だと思う。

北岡和義事務所

東京都在住

E-mail: kazuyoshi.kitaoka@gmail.com

2019年2月
« 1月   3月 »
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728  

カテゴリー

アーカイブ

最近のコメント