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台風19号襲来、誰も声ナシ

10月12日、土曜日。静岡市で予定していたジャーナリストの勉強会も13日の小田原寺子屋の講義も島田大祭もすべて台風19号の襲来で延期となった。NHKテレビで刻々、報じられる台風の予想進路、備える各地の準備状況、個人への注意呼びかけ・・・。本格的な首都圏襲来は午後8時すぎ。その前に息子から電話があって、江東区は荒川が氾濫したら低地が水没する。早めに重要な書類など持って母親のマンションに一家で非難する、お父さんんも独りだと何かがあると危ないので一緒に行かないか、とのお誘い。ぼくは鉄筋のマンションの5階だから大丈夫だろう、とお誘いを断った。

18時22分、家具が揺れる地震があった。震度3くらい。その後、次第に台風が首都圏に接近しつつあるのが雰囲気で分かる。その間、映画「釣りバカ日誌」をテレビで観ていた。三国連太郎と西田敏行、石田ゆり、谷啓ら芸達者な役者で盛り上げている。この前まで渥美清の「男はつらいよ」を放送していた。ストーリーは馬鹿げているけど会話に人情味があって面白い。たしかにぼくの子供のころはこの映画のようなシーン実生活のがあちこちで見られた。

20時が過ぎたあたりから風が強くなってきた。「ごおっ~」という暴風の凄い迫力の音、「バリバリ」という音。マンションが揺れた。ガラス戸に大粒の雨が吹き付けられる。高校時代に被災した伊勢湾台風の体験を想い出した。60年前、ぼくは高校3先生だった。その夜、実父も兄も帰ってこなかった。国鉄(現、JR)も近鉄も不通となっていたので帰れなかったのである。11歳だった小学生の弟は何の当てにもならないし、あとの家族はおふくろと姉、お祖母さんと女性ばかり。床下にごうっと水が入り込み裏庭へ流れ出た時は逃げよう、かと思った。台風史上最大の5,098人の犠牲者を出した。

約2時間半、荒れ狂う雨台風が首都圏でとぐろを巻いていた。11時ちかくなってすこし強風が和らいだ。『眠っているがんを起こしてはいけない。』(飛鳥新社)という近藤誠博士の書を読む。反抗ガン剤の論客だ。それなりに納得できる論文だが、抗ガン剤を「毒」と言い切る勇気には敬意を表する反面、全的に賛成というにはぼく自身、判断できる知識が無い。戸惑いを覚えるのもぼくのホンネ。抗がん剤の副作用を実感しながらなんとか「食べよう」と映画見ながら食べた。

体力減退、ガンは抑え込む

9月24日予定通り近大でCT撮影。血液検査の結果、ガンマーカーはHS-PIVKAが40、AFPが10、AFP-L3が10、と小さく抑え込んでいる。肝心のCT撮影の映像結果、ガン細胞は小さくなっている。多忙を極める主治医が午後6時40分すぎから病院の重要な会議の合間を縫って診察に応じて下さった。「検査結果は良好」と言われたが副作用は厳しく体力減退、下痢止めを3種配布され、毎回の食事ごとに飲むよう指示された。他に降血圧剤2種。夜8時過ぎ淀屋橋のホテルにチェックインしたが、総体評価は「良」と見るべきなのだろう。翌朝、東京へ戻ったが体力の消耗激しく、自宅で安静。

28日静岡駅近くの徳川慶喜屋敷跡でS市長の誘いに応じ現地の社会部記者と3人で会食。S市長はど素人の主婦だったが保守の分裂を機に市民に推され初当選、二期目は挑戦者をダブルスコアで退け再選、今は脂に乗りきっている女性政治家。実によく勉強している。ぼくは外国人でやる気のある若者をインターンに採用し勉強させるといいと提言して別れ、そのまま帰京した。現在の体調は決して良くない。前回、書いた象の死についてのコラム「時評」が『静岡新聞』9月26日付に掲載された。30日は高校の同窓の仲間の例会。みんな優秀で元気だ。

なぜ象は死んだのか

今夏のお盆は異常に上昇する熱気に煽られ、連日気温は35度を超えた。熱中症で死者が出ている。ぼくは今までの抗ガン剤と別の分子標的薬「レンビマ」を飲み始めた。副作用は軽い、と主治医は言ったが、実際には激しい下痢に見舞われた。何を食べても飲んでもすぐ下す。食欲無く食べる物がない。脱水症状を恐れて水を飲んだらそれも下した。身体が痩せ体力が衰えるのが実感できる。そんな中で身体を引きづるように上野動物園に行った。

静岡から友人の一家がパンダを見に来たので、小さい子らに会いたくて無理に足を運んだのである。上野動物園の動物慰霊碑は正面入り口に近い象舎の脇にある。男2、女1計3人の子供と友人夫妻の5人でニコニコ笑顔で待っていてくれた。明るい平安な一家だった。半世紀前、札幌の記者時代、一家で小樽の海岸に海水浴に行ったことを想い出した。

慰霊碑には”戦争の犠牲で”死んだ動物もいる、ことが表示されていた。1943(昭和18)年、大達茂雄東京都長官(現在の知事)は猛獣の殺処分を指示した。米軍の本土空襲で獣舎が壊されたら猛獣が街に逃げ出し住民に危害を与えることを懼れたのである。この猛獣処分は他の動物園でも行われた。

日頃、可愛がっていたライオンやトラ、豹、ニシキヘビなどが銃殺、毒殺、絞殺された。飼育係たちの無念の哀しみを思う。なぜか象だけは決して毒入りの餌を食べなかったそうだ。毒入りの餌を象舎に持ち込んだとき、象はじっと飼育係を見つめた。与えようとした毒入り餌は食べず投げ返したという。どうして象が分かったのか今も謎だ。そして・・・象は餓死した。

この話、吉村昭が短篇『動物園』で抑制の効いた文章で淡々と書いている。飼育係の回想録もあるようだ。戦争の残酷な一場面だが、ぼくは令和の平和な家族一家の笑いとともに慰霊碑を沈んだ気分で眺めた。

心配してくれる仲間たち

治験治療の終了で、抗ガン剤が変わった。飲み始めたのは「レンビマ」という厚労省が認可した分子標的薬。工藤正俊教授は朝日新聞が詳報したが、肝臓ガンの治験でいい結果を出している。ぼくの場合も効果を期待したいのだが・・・。9月下旬、CTを撮って様子が分かると思う。ガンマーカーはあまりあてにならないそうだ。

「レンビマ」は副作用も少ない、というのだが、ぼくの胃腸は復調したとは言えない。暑さが山を越えたらしい。酷暑は終わったにしても衰弱しきった体力をどう回復させるか。無理してでも食べるしかない。

連日のニュースは激化する日韓対立と香港の対北京抵抗運動。いずれも強権発動になりかねない危険な状態が続いている。朝鮮半島問題と生涯取り組んできた通信社のH君と話した。毎夜のようにテレビ出演し、語っているが、ぼくがもっとも信用している朝鮮半島の専門家だ。人柄がいいし真面目。彼が早稲田の学生時代からの付き合いである。電話で話しているうち近く会おう、という事になった。木場を訪ねてくれるそうだ。持つべきものは友である。

久しぶりに市民運動の全国的連携のつなぎ役をやっている九州大学のA教授が上京したので新橋で会った。彼はアメリカへ留学した際、知り合ったのだがNPO運動を研究している。法政大学でキャリア・パスを講義していたK教授から電話を貰った。香港と隣接する中国の深圳が凄いことになっているそうだ。中国のシリコンバレーと言われ、人口は東京の首都圏並みに膨れ上がっているという。

最近、S会館の理事長になった慶応大学教授から手紙が届き、理事長就任を知ったのだが、若いころから消費者運動について関わってきた彼が伝統の消費者運動NPOを経営するする立場となった。面白い。京都在住の大宅賞受賞作家・G君が上京するとのメールで仲良しのノンフィクション作家やジャーナリストで昼食会を準備した。みな優秀で真面目、それぞれビッグネームだが、気さくで威張らない。党派性の無いリベラルなジャーナリスト仲間である。彼らがぼくの健康を心配してくれるのが嬉しい。

治験治療終了、分子標的薬替え新展開へ

8月28日、ぼくの肝臓ガンの治験治療はピリオドを打った。2018年2月14日、近畿大学病院泌尿器内科の工藤正俊教授の指揮下で始まった治験治療だが、隔週で東京(当初は茅ヶ崎市)から大阪へ通院を続けた。毎回、新幹線の車内で情けない気持ちを抑えきれない。人間は想定外の事件、事項にぶつかるというが、ガンこそぼくに想定外の、何一つ考えていなかった一大事件だ。しかも10人いた(同じ条件下の)治験患者で最後まで残ったのがぼくだった。もちろん「ガンが消えた」のではない。むしろ6月、新しいガンが見つかり、さて、これをどうするか、という課題にぶち当たった、というのが正直な現実です。「ガンとの共生」を主張してきたぼくの新たな挑戦が始まるとも言えます。別に喜んでもいないが、気落ちもしていません。

治験開始当初、その効果が劇的にあったのは間違いない。「余命3~6か月」と宣告されたのにぼくは今も生きている。分子標的薬という抗ガン剤を朝晩飲み、隔週で近大に通い、免疫強化の点滴を打つというガン治療では画期的と言われたダブルでの治験治療だった。最初の数か月は驚くべき効果があり、「記録破りだよ」と工藤教授を驚かせたが、去年夏以降は下降線をたどった一方だったガン・マーカーの数値はなぜか低位、横這いが続いた。

しかし抗がん剤の副作用のため食欲が落ち、食べる物が美味しくない。体力の衰弱が自分でも分かる。副作用がきつくなると一時、休薬を願い出た。ことし4月、再び休薬し2か月休んだ間にガンマーカーは維持できたが、CT撮影で新しいガンが見つかったのです。これに対するこれまでの抗がん剤は復薬しても効果無く、工藤教授は治験治療の終了を告げたのです。治ったわけでなく悪化したのでもないが、なんとも後味の悪い治験終了だった。あっけなく終わった。この2年半とは何だったのか。(生きているからいいいじゃん、と言う声も聞こえる)

今後は抗がん剤を替え、別の抗ガン剤で免疫強化の点滴の効果があるうち(約6か月)に別の分子標的薬を飲むことになった。変わったことと言えば免疫強化の点滴が無くなり、近大通院も1か月に1回と減ったこと。工藤教授の話では抗ガン剤に耐性ができたためで抗がん剤を変えることで効果は期待できる、という経験上の判断でした。

暑かったお盆に下痢が次第に悪化、19日頃からさらに激しくなり22日ついに茅ヶ崎市の湘南東部総合病院に緊急入院、5日間寝たっきり24時間栄養点滴を受けながら美味しくない病院食を美味しいと無理に考えて食べ、ようやく下痢は収まった。副作用は下痢のほかノドが擦れ、皮膚上に妙な斑点が浮き出て少し痒い。一時は話すのもシンドイ状態でした。今はかなり回復しなんとか大阪まで行くことができた。そして・・・「治験終了」を告げられたのである。次回は1か月後、9月下旬に近大でCTを撮り、新たに取り換えた分子標的薬の効果を見ることになった。治験は終わったが、近大の工藤教授の治療は続く。ぼくは教授の指示に従うだけである。現在、肝臓ガンの研究でもっとも高い評価と実績を上げている医学者である。ぼくの友人、故柳原和子の最期の主治医でもあった。亡くなる直前、(喧嘩したらしい)主治医が変わったけど。

緊急入院に際しては湘南東部総合病院の市田隆文院長にお世話になった。気さくで酒好き、日本ペンクラブ会員と言う文人派で、肝臓ガンの臨床例は数えられないほど扱った。日本の肝臓ガンの世界では高い技術力がある。分厚い専門誌『肝胆膵』の編集長をしているから最先端情報を居ながらにして入手できる立場にある。しかもぼくのLAで出会った親友、岩城裕一博士(南カリフォルニア大学組織免疫研究所長、サンディエゴ在)とはピッツバーグ大留学時代の教え子にあたる。

市田院長はぼくがかけた緊急のSOS電話にすぐ対応してくださり、個室ベッドを用意してくださった。感謝している。医師、看護師や検査技師、CT撮影技師ら病院のスタッフはみんな若い。明るく親切で、半世紀前の大病院とは大違いの雰囲気である。でもガンは治らない。「ガンを治す」と言い切る医師はいないと思う。

お盆に大阪通院、抗ガン剤復薬

大型台風が盆にやって来るというので、「のぞみ」の指定席と往復切符を早めに買った。お盆と年末年始はジパング・クラブの優待パスが使えないので、フルチャージ。東京~新大阪、初めて31,000払った。それにホテル代が6,500円。

地下鉄や南海電車代など約4,0000円が1回の通院代である。高齢時代を迎え、お盆に大阪の東南端の大学病院に通うのがぼくの最低の義務と言う、妙な生活が続いている。すでに1年7か月が過ぎた。一度は消えかかったガンは再生し始めた。

工藤正俊教授は丁寧に病状を説明してくださるけど専門知識のないぼくにはガンが良くなっているのか、悪化しているのか、判断つかない。どうやら目前の死、というような危機状況ではないらしい。現在の治験治療を続けざるを得ない。

抗ガン剤を復薬したことで副作用が確実に出て、食欲がまったく無い。また痩せるだろう。のどのかすれも以前より酷いようだ。下痢が激しい。仕方なく下痢止め薬を飲み始めた。27日にCT撮影が予定されているが、さて、その結果如何?

最悪の日韓関係

肝臓ガンの治験で新たに肝臓内にガン映像が見られ、対応に抗がん剤を復薬、副作用で調子は良くない。下痢が激しく、毎日35度を超す猛暑でちょっと弱気になっている。

このところ日韓関係は最悪、日本製品の不買運動まで起き、簡単に修復できそうにない。今夜のテレビの討論番組に登誠一郎が登場した。まったく老けた印象がない。外政審議室長だった彼はLA総領事時代、親しく付き合った。外交は相手の立場を理解して進めるべき、とのコメント。その通りだと思う。安倍首相、河野太郎外相の突き放した態度で韓国の文在寅大統領はますます反発し、すでに話し合う機運ではない。どこまで行くのか。外交上、大きな懸念事項が深刻化している。ぼくの言う「ガンとの共生」を考えてくれるといいのに、と思う。日本は隣国、韓国と共生して行かねばならいのに安倍政権は逆方向に力学が働いている。

再会絶景

九州から電話をもらった。「最近、ブログを更新していないが、どうしてますか。心配している、との電話。申し訳ない。ブログがマンネリ化することを懸念して一度、休んだらなかなか再開できなかった。そのうち新しくガン細胞が見つかり休薬していた抗がん剤を復活した。大阪通院は続けている。

6月中旬、1週間ほどLAへ行った。仲間の熱心な誘いに同意したのである。LAでは4回、講演し「ガンとの共生」について語った。以下に掲載する。

死があって生がある~LA再訪、再会絶景(LAの個人誌から転載)

配属先の讀賣新聞千葉支局のドアを押した。留守番のような記者が一人いて、顎を上へしゃくった。二階へ行け、という意味だ。記者の異動があったらしく送別会で飲んでいた。新人のぼくに「座れ」と言いコップにビールを注いだ。誰も名乗らないしぼくのことも聞かない。車座になって飲み乱雑に議論している。

妙なところへ潜り込んだなあ、とヘンな気持ち、そのまま二次会に繰り出し仕方なくぼくも附いて行った。

新聞記者とはずいぶん非常識で無礼で傲慢な連中だな、というのが最初の印象。オリンピックが東京で開かれる1964年の春だった。・・・そして55年経った。

ぼくは独りで東京の下町のマンションで暮らしている。2017年12月に肝臓ガンが見つかり以降、大阪の大学病院で治験治療を受けて1年半になる。どこで聞きつけたのか、友人知人が見舞いだろう、訪ねてきた。

驚いたのは「ガン」という病気の衝撃力だ。多くが「死」のイメージを抱いている。ぼく自身、ガンだと告げられ「そうか。オレはやがて死ぬのか」となんとなく妙な気分で、死を初めてイメージした。「自分の死」がど~んと目の前に現れ立ちはだかった。

77歳、喜寿を迎えたその年、ぼくの父親は逝った。朝、おふくろが起きて親父の寝間に行ったら死んでいた。大往生だった。その日、新宿で参議院選に出馬した秦豊の激励パーティがありぼくが取り仕切っていた。すぐに駆け付けられない。

パーティが終わって800CCの空冷エンジン、白いトヨタ・パブリカで東名を西へ走った。実家は三重県の四日市。深夜着いた時、きょうだいが全員揃って話し込んでいる。

父はお棺の中で静かに眠っていた。実直な鉄道員人生で、昭和天皇のお召列車の専務車掌をやったことがプライドだった。戦争末期、インドネシアのバンドンの駅長をやった。エリート官僚ではない。踏切番や水汲みから出発した叩き上げのポッポ屋。車掌から助役になり、兄が生まれた時は愛知県の小さな駅の駅長だった。

その父の逝った年齢をぼくは今、生きている。長女はニューヨーク、長男は隣りの駅のマンションで妻と孫娘と4人暮らし。家内は日本橋に住んでいてぼくは独り住まい。典型的な日本の中産階級の少し哀しくも気楽な老後である。

27年近くロサンゼルスでジャーナリストとして住みアメリカを観てきた。学んできた。911同時多発テロに遭遇した時、「アメリカは衰退するな」と確信のような感情が盛り上がってきた。トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」というスローガンはWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)の連中の復権を叫んでいるのだ。でも時代は予想を超えてはるかに進んでしまった。

前大統領、バラク・フセインオバマがケニア人留学生とアメリカ白人とのハーフであることは周知のとおり。アップルの創業者、スチーヴ・ジョブズもシリア人留学生と白人女性との混血である。大坂なおみもサニブラウン・ハキームも日本人とのハーフである。今やまさにハイブリッドの時代なのである。

帰国した友人が馴染みの居酒屋で誘ってくれた。「北さん、LAに来ないか」と。

ぼくは最初、あまり乗り気ではなかった。「今さらLAでもあるまい」。でも入れ替わり友人が何度も来て「今の時代を好きな仲間と好きに生きるんだ」と楽しそうに言い、熱心に誘ってくれた。

フト、心が動いた。

「行ってみようかな。ずいぶん変わったそうじゃないの、LAは」

7月9日午後、羽田空港を発った大型機は1列9席もあった。9日朝、無事LAXに着いた。東北大震災の震災遺児救済キャンペーンで2012年3月に行って以来、7年ぶりだ。

翌日夜、トーランスのホテルで歓迎の夕食会が開かれた。

大半が旧知、友人やスタッフ、昔の仕事仲間だった。渡米直後会って以来、公私とも世話になったマユミさんは市場調査などを引き受ける事務所を開いている。公認会計士の竹チャンは会社を売り買いするビジネス・コンサルタントとなり世界中を飛びまわっている。メキシコのマキラドーラでセミナーを主催したおめでたい姓の彼はトラベル・コーディネーターの会社を経営していた。ニューオータニ・ホテルの宴会マネージャーだった紳士が宴会をアレンジしてくださった。ホロコーストを生き抜きアメリカへ逃げたユダヤ人をインタビューし書き上げた、ノンフィクション作家のきぬえさんの顔も・・・。隣席には外務省が「日本売り込み」に力を入れているジャパン・ハウスの館長もいた。

懐かしさがどっとこみ上げてきた。

確かにみんな少し老けたようだが、友人の瞳は輝き、昔のままの闊達な仲間たちだった。立ち代わり入れ替わり握手しあいさつし、ニコニコ再会を喜んでくれた。

ぼくは「出会絶景」という言葉が好きだが、今回ほど「再会もまた絶景なり」を実感したことはない。

地下鉄が開通したというのにLAのフリーウエイは信じられないほど混んでいた。ダウンタウンのビル街は深夜まで煌々と光が輝き不夜城のごとく蘇っている。それにリトルトーキョーのすぐ側にある6~7番街のホームレス村。簡易テントがずらり。「増えたなあ」との印象。10年前の数倍はいたように見えた。

翌日、アーバインの会場には110人を超える人たちが集まってくださった。ガンに対する関心が強いのだろう。遠くサクラメントやリバーサイドからも来てくれた。

「ガンは治りません」とぼくは語った。「でも(現代の医学の進歩で)ガンと共生することは可能です」「嫌な奴とも共生する。そうすれば戦争は無くなる。平和が訪れる」

ぼくはガンになっていろんな人からいろんな知識、情報をもらった。書棚にはずらりガンに関する本が並んでいる。闘病記もあれば医科学的解説書もある。ガンと生きたジャーナリスト、柳原和子の『ガン患者学』(晶文社)、『百万回の永訣』(中央公論)は印象に残る。

浜松で抗がん剤を否定して元気に生きている女性ジャーナリストがくれたのはノーマン・カズンズ著『笑いと治癒力』(岩波現代文庫)。メンタルな分野がフィジカルな肉体に微妙に影響する事実を書いた名著である。カズンズはアメリカ人ジャーナリストだが、医学に詳しくカリフォルニア大学医学部大脳研究所教授として医療ジャーナリズムを教えた。

荒っぽく言えば「ガンは笑い飛ばせば治る」という。暴論のようだが、カズンズの指摘に近年、医学界が真剣に耳を傾け、ガンを巡ってフィジカルとメンタルとの関係性を研究する医学者が増えているそうだ。

肝臓にガンが発見されたのは2017年12月9日。飲み友達だった市田隆文医博(湘南東部総合病院院長、元順天堂大学静岡病院教授)はCTとMRI撮影の映像を見ながら言った。

「ガンだよ、北さん、それもステージ4だ」。その意味がよく分からない。質問すると「末期ガン、余命3か月、長くて6か月くらいかな」と言い切った。

「へえ、オレは来年の半ばには死ぬのか」と思ったが、実感は湧かない。

市田医師の勧めで大阪の近畿大学病院の工藤正俊教授の治験治療を受けることになった。工藤教授は京大医学部の卒業で、肝臓ガンで画期的な実績をあげているトップクラスの医学者である。

2月14日から治験治療が始まり、抗ガン剤を飲み点滴を受けた。通院患者だから隔週毎に新幹線で大阪へ通った。なんとなく車中は虚しい。落ち込まない。落ち込まない、と自分に言い聞かせた。

ガン細胞の多くは消え、7月中旬ころの診察では「記録的(に効果があった)」と言われた。ところが抗がん剤の副作用は結構厳しく、食欲が減退、味覚が失われて何を食べても美味しくない。次第に痩せてきた。

ジャーナリスト・立花隆は2007年12月に膀胱ガンに罹り、NHKスペシャルのスタッフと「ガンとはそもそもいかなる病気なのか」ということを「多面的に正攻法で取り組んだ番組」(立花隆著『がん 生と死の謎に挑む』(文春文庫)を制作、放送した。

米国取材3回、ヨーロッパ2回、国内15回など文字通り多角的多面的に「ガンの正体」の解明に取り組んだ。その結果、「ガンは個性的であり、(現在の医学では)治らない」というのが結論であった。

友人だったノンフィクション作家・柳原和子も「ガンは個性的」と同じ言葉で書いている。

個性的とは一人一人違う、ということであり、医学はガンを極めることはできない。人間の個性と同じで「決めつけるものは何もない」~分からない、ということである。

ぼく自身、ガンに罹ったから言うのではなく「ガン」と「死」は無関係ではないか、との思いが強い。「ガン」=「死」という既成概念から抜け出すことから(自分の治療が)始まると考えた。

「死」は誰にもやって来る。これを否定する者はいない。だけど「自分は未だ死なない」と(何の理由もなく頑固に)信じている。それに対し「ガン」患者は「死」が近い、と思う。正しいか、間違っているか、ではなく、この呪文から抜け出すことが第一ではないか。

だからぼくは「死ぬまでしっかり生きる」という、心情を語った。太平洋を飛んでLAまで行き、当たり前のことを言ったのに過ぎないのに意外と多くの人々が共感してくれた。考えてみればみんな悩んでいるのだ。

主催者が好意でアンケートを取り、同時にカンパを呼び掛けてくれた。後に主催者からアンケートとカンパが届けられた。多くの感想が共感の言葉で溢れ、「バカな事を言うな」とお叱りのメッセージは一つとしてなかった。

カンパは航空券代の半額近くの額を数えた。お寄せくださった皆さんに深謝である。

遠い過去から人間は何一つ「極めた」ことがない。ギリシア、ローマの時代から西行や鴨長明や松尾芭蕉や・・・。平家物語もまた権力を巡る人間どもの愚かさを琵琶の音を打ち鳴らしながら儚く語り継ぐ。

ポスト印象派のフランス人画家、ポール・ゴーギャンが描いた作品。

<われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか>

同じ問いを発しながら人間の個体は逝ってしまう。また来てまた去る。

同じ疑問を発し同じ疑問に呻き同じ疑問に悩み同じ疑問を棄て去って逝く。

ガンになって偶然、知り合った東京理科大学教授、田沼靖一博士は「死」を研究する分子生物学者である。『ヒトはどうして死ぬのか』(幻冬舎新書)、『遺伝子の夢』(NHKブックス)などを書き、魅惑的なテーマに取り組んでいる。

ヒトの個体は40兆個(以前は60兆個と言われた)の細胞からなり、各細胞は遺伝子を有している。その中に「死の遺伝子」があることが分かった。アポトーシスと言う。

アポトーシスは細胞に「死」を命じている。従って細胞は命じられたとおり死ぬ。皮膚や頭皮の細胞は数日で死ぬものがある。それがフケになる。

ところがアポトーシスの細胞が何らかの原因で死ななくなることがある。するとその細胞はどんどん大きくなる。これがガン腫瘍であり、やがて個体そのものを死に至らせる。分子生物学はそこまで突き止めたが、その先、アポトーシスが命じる死に到る機序が解明できない。それにはもっともっと時間がかかる。

だからガンは治らない。

ぼくが小さなテレビ局で日本語のニュース番組を始めた時、実質的に取材や撮影、編集、出演など積極的に手伝ってくださった女性とも会えた。始めたころは1985年、それから34年経った。当然、溌溂として、美しく愛らしかった彼女もそれ相当に老いていた。でも人柄はほとんど変わらない。私的な悩みも抱えている。

ガーデナのファミリー・レストランで2~3時間話し合った。

デスバレーで正月を迎えた番組を制作し、アラスカの原油を汲み取っているプルドベイまで現地ロケした。野生を追いかけていた写真家・星野道夫君(故人)やアラスカ大学でオーロラの世界的研究者・赤祖父俊一博士にインタビューした。犬橇の耐久レースに挑戦していたサラリーマンにも取材した。撮影は楽しかった。いまやゆかしい。

7月4日のCT撮影でガンが新しく増えていることが分かった。抗ガン剤を休薬して2か月、点滴は続けていたが、医師は新生のガン細胞の現象を説明できない。

治療を転換する時期かも知れない。ガン治療にはいろんなアプローチがある。肝臓動脈にカテーテルを突っ込み、抗ガン剤を吹き付け栓をする塞栓療法や放射線でガン細胞をピンポイントで焼き切る方法。抗ガン剤でガンを抑える。外科手術で切り取るなど。

ぼくのガンとの共生は続く。いつまでも続く。

治験治療の実際①

肝臓ガンが茅ヶ崎市の総合病院で見つかったのが2017年12月9日。同月12日に入院し15日、肝動脈化学塞栓療法(TACE)という手術を受けたことは既述した。右の鼠径部の大動脈に穴を開け、そこからカテーテルという細い管を血管の中を通し肝臓に達したら抗がん剤をふっかけ血管を塞いでしまう。すると塞栓した血管の先に栄養が届かないのでガン細胞は死ぬ。

この手術は成功し二つあった大きなガン細胞は死んだ。医学の世界ではこの手術を”兵糧攻め”、と呼んでいる。ただガンはまた別のところに出てきて、2,3度塞栓手術を続けるとだんだん効かなくなり、しかも肝臓が悪化する。

ぼくが近畿大学病院で受けている治験治療は分子標的薬という抗ガン剤を飲み、かつ2週間に1回、点滴を受ける。専門的な表現だが「アベルマブ/アキシチニブの治験」と言い、2種同時に別々の抗ガン医療を試みているわけだ。アベルマブは分子標的剤と呼ばれるガン細胞をピン・ポイントで攻撃する抗ガン剤で副作用は比較的軽い。それでも味覚が失われ食欲が減退する。下痢、吐き気、唇の荒れなどの症状が出てくる。アキシチニブは免疫ポイント阻害剤で、本庶佑・京大教授が発見しノーベル賞を受賞した物質、T細胞(リンパ球の一種)の「PD-1」とガン細胞の「PD-L1」が結合するのを抑える、ということでガンの増殖を抑える、というのである。

当初から目覚ましい効果が現れ治験を始めてから3-4か月でガンの腫瘍マーカーは劇的に下がった。「記録破りですよ」と工藤正俊教授が叫んだほどだった。しかし・・・。

治験は昨年2月14日第1回を始めた時、同じ治験患者は10人だったが、今残っているのはぼく一人だけ。他はすべて「離脱」した。抗ガン剤が効かなかったか自分で止めたのか、あるいは亡くなったのか、は分からない。

ぼくのガンの状態が最初「ステージ4」(末期ガン)と診察されたが後日「ステージ3」だったかも、と医師は曖昧なことを言う。だが「余命3-6か月」という危険な状態から脱したのは事実だろう。でも体内にガン細胞は残っている。

本の紹介です。

北岡和義事務所

東京都在住

E-mail: kazuyoshi.kitaoka@gmail.com

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