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16歳でガンに罹った友人

1月4日、まさに新春早々、大阪の病院へ行った。定期検査、検診そして治験治療の点滴です。1回100~180万円を超えるとか。治験ですから正確な金額はあるようでない。最初が昨年2月14日だったから今やそれも22回余を受けていることになる。点滴前の薬を飲み30分休む。点滴は1時間。終わって2時間は病院内で休むことを義務つけられている。何が起きても医師がすぐ対応できるように、という体制だ。幸い一度も体に大きな変化は起きず、1時間半が過ぎると新幹線に間に合うよう新大阪へ急ぐ。路線バス(時にはタクシー)で最寄りの私鉄駅まで行き、なんばで乗り換え新大阪へ行く。そこで東京へ戻る新幹線に乗る、という道筋だ。慣れたようななかなか慣れないような気分です。

長年の友人、F君からメールが飛び込んだ。学生時代、新左翼だった。政党の機関紙の編集長をしていたから一見、ジャーナリストの雰囲気もありながら、政党の立場ははっきりしている。昔、LAからいろんな情報を記事として送った。特にジャパノロジストのインタビューや日系アメリカ人の歴史ものは意図的に送った。

彼のメールを読み驚いた。なんと16歳でガンに罹り死に直面したそうだ。ことしになって初めて知った。彼の許可を得て全文、掲載する。

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北岡さんががんを告知されたのが76歳と先日知りました。

話したことがなかったかも知れません、私は16歳のときにがんを告げられました。高校2年、1965年の2月でした。発熱がつづき、額のところに小さな突起物ができました。私は小学生の時に心臓弁膜症を早期発見した経験があり(それでも二か月入院しました)、体の変調にはすごく敏感になって生きていたのです。

それで父親と札幌の北大病院へ検査に行きました。その時の結果は異常なし、でした。その夜、札幌の姉の家に泊めてもらいましたが、どうしてもひっかかるのです。体内から、オカシイ、という声が聞こえてきている感じが抜けません。

それで、翌日、父親は千歳に帰りましたが、私1人、再度北大に行き、再検査をしてもらいました。若い医者が前日のレントゲン写真を丁寧に見直し、右の鎖骨のところがひっかかる、局部レントゲンを撮ってみよう、ということになりました。その結果、右鎖骨部に腫瘍があることが分かったのです。

医者はあわてました。とにかく、早急に対応しなければいけないが、北大病院へ入院するとなると時間がかかる、市内の病院に問い合わせてみる、と直ぐに受話器をとって電話を始めました。そして、清水脳神経外科という病院に空きがあり、翌日入院し、手術するように、とのことでした。あとで調べると、少年期の急速な生育のスピードによって肉体のズレが生まれ、肉と骨のところの違和ががんを生んだのだと、知りました。

当時、「愛と死を見つめて」という手記、それの映画が大ヒットしていましたが、あれも骨肉腫でした。私が、入院し、手術をして成功したとして、その後はどうなるのか? と聞くと、首から上に肉腫が上がるとアウトだが、そうでなければいい。しかし、25歳までは要注意だ、ということでした。16歳の私に実に率直に語ってくれたことに、いま思うと少々驚き、感謝をしたいですね。

室蘭線の三川という小さな駅に夜降り立つと、吹雪でした。家まで4キロを、吹雪の中を歩きました。その時に一番、死を考えたと思います。「それにしても早すぎるじゃないか」というのが一番の思いでした。

翌日は入院ですから、栗山の高校に行き、病名は伏せて入院することを担任に告げ、友人たちと別れました。病院では、3日後に手術をする。執刀するのは北大の医師チームだと告げられました。そうすると、48時間位しか自由な時間はありません。私はその時に、ドストエフスキーも読まずに死ぬのはつらいな、と思いました。

それで『罪と罰』を手術までに読みきろう、と決めたのです。看護婦さんに話すと了解してくれて、消灯後もスタンドを使うことを許してくれました。それで何とか、手術が始まるまでに読了したのです。

その時の経験がいまも生生しくて、その後『罪と罰』を手にしたことはありません。手術は、けっこう大掛かりなチームが撮影をしながら行われ、成功しました。親から直接に私のがんのことについて聞いたことはありませんが、弘前大に行っていた直ぐ上の兄に母親は私の病気のことを書いた手紙を出していました。普段、手紙を書くことはほとんどなかった母ですから、如何に動揺したかを随分後になって知ることになりました。

しかし、当時つきあっていた同期生の恋人以外には、誰にもがんのことは話しませんでした。同情というか、「不幸な人」というメガネで見られるのがいやだったのだと思います。手術は成功しましたが、再発の不安がいつも頭の隅にある青春時代となりました。大学で学生運動をしていても、毎年、秋になると高熱を出して寝込みました。生協で働くおばちゃんの家で何日も寝かせてもらい、不安に怯えることになったのです。同時に、人並みに企業に就職し、結婚し、という人生の進路は全然信じられないというか、そうは生きられない、生きてはいけないという思いが常にありました。

若く死ぬにしても、自分の人生を生ききった、と自分に言ってやりたい、人の所為や時代の所為にはしたくない、とそんな風でした。私が多分、他の活動家よりも本気度があったのは、そういう理由です。しかし、新左翼運動には未来はない、とその運動が一番高揚した1969年10月に思い始め、11月に社学同北海道委員長を辞任し、運動から退きました。

私が社会党中央本部に入ったのは30歳のとき。25歳を過ぎ、腫瘍の不安も薄らぎ始めたのですが、母親が私に「誠ちゃんのような人は、30歳ころまでは何をしてもいいけど、30歳になったら一生の仕事というのを見つけなさい」と言われたことを盾に(母親はそんなことを言った記憶はないと後から言ってましたが)、組織に属さない生き方をしていたのでした。

「死」と向き合わざるを得ない、というのは辛いことでしたが、しかし、物事を表面的に判断したり、誰かの所為にしないで、基本的にはお墓に入るときに、「まぁ、しっかり生きたよな」と自分に言えるような人生を考えてこれた、ということでは幸せだったと思っています。

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彼は確かぼくより10年若いはずだからいま、60歳代後半。確かにインデペンデントな人で、自分のやりたいことはきちんとやる、という生き方。几帳面な性格で大の映画ファン、彼からいろんな映画の解説を教えてもらった。有為な人も紹介してもらった。感謝している。政治好きなのか、今も国会を離れず、ボランティアで国会の情報を送ってくれる。素敵な人生だと思う。


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北岡和義事務所

東京都在住

E-mail: kazuyoshi.kitaoka@gmail.com

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